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『イエスタデイ』を観た。

ビートルズの楽曲を聴いたことがなくとも、ビートルズというすごいバンドがあった、ということさえ知っていれば、気持ちよく楽しめるラブコメディだった。そして、それが即ち物足りなく感じた理由でもある。

ビートルズの曲が、物語のシチュエーションに合わせて流れる。主人公の境遇と、それに沿った歌詞を213曲の中から選曲する脚本執筆は、さぞや楽しかっただろう。繰り返すが、その成果を味わうだけで、基本的には十分。ただ、もうちょっと驚きが欲しかったのである。

着想を記事で読んだとき、これは面白そうだと思った。もちろん、かわぐちかいじさんの漫画、「僕はビートルズ」を真っ先に思い出した。だが、監督はイギリス人であるダニー・ボイルである。ビートルズの国の監督が、ビートルズがいなかったとしたら…というifの物語を撮る。だからこその展開があるはずだ、と勝手に想像していた。

主人公のジャックは、廃業寸前の売れないアーティスト。自分だけがビートルズの楽曲を知る世界が訪れ、彼らの楽曲を自分のものとして表現することにより、ジャックは一躍スターダムに祭り上げられる。その虚栄の果てに、ふと大事なことに気付き、最終的には間尺に合った幸せを手に入れる。という物語の基本線、それはいい。もっと欲しかったのは、ビートルズという、あの才能や表現物が存在しない影響が、今の世界にこんなに広く、こんなに深いところまで及んでいるはずだ、という、「想像の幅」だ。

ビートルズを誰も知らないことに気付いたジャックは、まずネットでビートルズを検索する。しかし何度検索しても、引っかかるのはカブトムシ。自分が持っているレコードを引っ張り出しても、ビートルズのレコードだけは消え失せている。次に、ストーンズを検索する。ストーンズはいる。そして、オアシスを検索する。オアシスもいない。平たく言えば、ビートルズが存在しないことで世界に起こっている影響は、オアシスがいないことだけなのである(それももちろん大ごとなのだか)。

ビートルズが存在しなかったとしたら、どんなバタフライエフェクトが起こり得たのか。「僕はビートルズ」ではなく、イギリス人の監督だらかこそ膨らませられるアイデアを、もっと味わいたかった。

好きなシーンが二つある。

ジャックがビートルズの楽曲を歌うことで有名になる過程で、その着火役として、エド・シーラン(本人)が登場する。彼のライブの前座を引き受けることで、ジャックは一躍有名人になって行くのだが、そのライブの打ち上げで、エドがこう提案する。

「どっちが10分で良い曲を作れるか勝負しよう」

そこでジャックは、The Long And Winding Roadを歌う。それを聴いたエドは衝撃を受け、
「キミがモーツァルトで、俺はサリエリってことか」
と呟き部屋を去るのだ。
優れた才能の持ち主が、圧倒的な才能の前に、その才を認め、失意する。シビれるシーンである。ここでエドが、「俺は引退する」と言ってくれれば完璧だったと思うのだが、まあそうはならなかった。

もう一つ。

後半ジャックは、才能を騙っている自分に迷い、意外な協力者の助けもあってある人に逢いゆく。映画のコンセプトからすれば、そのシーンが存在するであろうことは予測できたはずなのだが、うっかり不意にそのシーンと出くわしてしまい、しかし却ってそれがよかったのだろう、しっかり泣いてしまった。あの、海辺の家での、逆光でのハグのシーン、あれは美しかった。

ラブコメディとしては、気に入らないところもあるが丁寧にまとめられていた。見れば、脚本がリチャード・カーチスだった。「ラブ・アクチュアリー」、大好きな映画です。ただ正直に言えば、ビートルズが存在しない世界に生きる人々に、ビートルズが産んだ偉大な楽曲を伝えるというその使命を、主人公が傷つきながらもとことんまっとうする映画こそを観たかったと思う。

帰り、サントラを落として聴いてみた。「サマーソング」はやっぱり飛ばすのだった。

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