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和太鼓の稽古

私は約20年間、和太鼓を習っていました。
週末はもちろん、平日にも仕事帰りにあちこちの太鼓教室に通っていた時期があります。
それだけ好きだった和太鼓ですが、自分が上達を目指す太鼓はやめました。

理由は2つあります。
1つの理由は、まったく上達しないことに嫌気がさしたことです。
2つ目の理由については、明日書くことにします。

稽古をしても、しても、ちっとも上手くならない。

そんなことを考えずにただ太鼓を楽しめばいいんだ。
何度も自分にそう言い聞かせましたが、それができない。
「うまくなりたい」という強い気持ちを捨てきれずにいました。
稽古に行っても楽しくない。
稽古帰りには「ああすればよかった」「こうすればよかった」という思いばかりが残り、悔しさだけでなく、苦しさすら感じていました。
いつもメモに記した先生のご指摘を読み返し、次回に活かそうと反省しながら帰っていたのですが、悔しさでそれすらできないこともありました。

ある日、先生がいつもより遅れて稽古場にいらっしゃることになり、それまでの間は参加者が交代に太鼓を打っていました。
私も打ちました。
そのときは、心のおもむくままに、というよりも、体が自然に動いて、これまでで一番といっても良いくらい、とても心地良く打つことができました。

そして、先生登場。
私が先生の前で打つ順番になり、打ち始めると、先ほどのようにはゆかない。
さっきとはまったく異なるひどい太鼓になってしまいました。

帰りの道すがら、「何故、先生がいらっしゃる前と同じように打てなかった、否、打たなかったのか」と自問し、悔しくてなりませんでした。
何故、何故、何故。

いつも厳しい先生の前では緊張もありますが、それ以上に「先生に褒めていただきたい」という思いがむくむくと心の中に湧き上がり、心が乱れてしまった。
体が自然に動くどころか、「次はこう打とう」「そしてその次は...」と考えながら打っていたのです。

太鼓の中は空洞。
「空」だから響く。
打ち手の心も「空」になると聴く人の心に響く太鼓を打つことができる。

撥は二本。
自分も二人いる。
先生がいらっしゃる前は何も考えない無心の自分が打っていた。
しかし、先生がいらしてからは「先生に褒めていただけるように打とう」という邪念を持ったもう一人の自分が勝ってしまった。
その結果、心も撥も乱れ、滅茶苦茶な太鼓になってしまった。
太鼓の腕前だけでなく、心の未熟さを痛感する日々でした。

上達を求めることをやめた今、余計なことは何も考えず、仲間と太鼓を楽しんでいます。
こういう楽しい太鼓もあるんだ、ということにようやく気付きました。