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日々雑感【太鼓やめます】

私が大切にしてきた趣味の一つ、和太鼓。

幼いころからのお祭りや盆踊りでの太鼓は除いて、初めて「和太鼓」というものに出会ったのは1980年のことです。
当初は観るだけだったのですが、2000年からは自分でも打つようになりました。

その和太鼓を何故やめることにしたのか。
気持ちを整理するために、少し専門的なことも含めて、ここに書きます。

先ず、1980年に何が起こったか。

「鬼太鼓座(おんでこざ)」という和太鼓集団の演奏を聴きました。

衝撃を受けました。

あの感動は今でもはっきり覚えています。

その舞台に背筋がゾクゾクし、涙が止まりませんでした。

私が知る限り、そのころはまだ和太鼓というものを、しかも、和太鼓だけを舞台で見せるということはおこなわれていませんでした。

この鬼太鼓座を世に知らしめたのはアメリカ、ボストンでのボストンマラソンでのことでした。

一般人がフルマラソンを走るということがまだ一般的ではなかった時代。
どこの誰だか分からない日本から来た若者たちがこのマラソンを完走し、ゴールするなり、舞台に駆け上がり、3尺8寸の大太鼓を演奏したのです。
直径1メートルを超える大きな太鼓です。

鬼太鼓座は佐渡島の廃校を利用した合宿所で集団生活を送っていました。
毎朝走り、ひたすら和太鼓に打ち込むという生活です。
有名な逸話の一つですが、彼らは利き手と反対側の手で箸を持つという「訓練」をしていました。
太鼓を打つときに左右の手で同じように打てるようになるためです。

その鬼太鼓座の演奏。
「神がかった」というのはこういうことなのでしょう。
舞台を縦横に動き回り、ときに激しく、ときにピーンと張り詰めた糸のような緊張感。

以来、私は和太鼓に、否、鬼太鼓座に、取り憑かれ、その演奏を観るようになりました。
これも「まだ当時は」ですが、今のように簡単に切符を買える仕組みはなく、そもそもどうやって公演の情報を得ていたのか、記憶にありません。

この鬼太鼓座はその後「鼓童(こどう)」となり、今に至っています。

今も鬼太鼓座という和太鼓集団はあり、今、書いた流れを継承していることになっていますが、当時の座員たち全員が主催者の下を離れて「鼓童」を作ったので、どちらを「本流」というべきか。
私には分かりませんし、私にとって、それはどうでも良いことです。

私は、もちろん、鼓童を聴き続けました。

現在も和太鼓というとよく登場する林英哲さんはこの鬼太鼓座の座員の一人でした。

1993年に私は香港に赴任したため、その6年半の駐在生活中は太鼓にご無沙汰していました。

2000年に帰任し、最初にやったことが「自分でも和太鼓を打つ」ということでした。

その年の8月。
鬼太鼓座/鼓童の一員だった富田和明さんがやっていた「太鼓アイランド」に入会しました。
44歳のことでした。
あの神がかった演奏をした一人である富田さん。
その最初の練習に向かいながら「本当にあの富田さんが現れるのだろうか」「本当に富田さんから太鼓を教えてもらえるのだろうか」と半信半疑でした。
しかし、練習会場にいらしたのは紛れもなく富田和明さんでした。

初めて打った和太鼓。
それまでは外から見て、聴くだけだった和太鼓の音。
今度はその音の中に自分がいる。
自分がその音を作り出している。
とても感動し、不思議な感覚でした。

以後、太鼓の基本をみっちり指導していただき、さらには鬼太鼓座や鼓童が演奏して私を感動させた「屋台囃子」や「三宅太鼓」の手解きも受けました。
私の最終漂着地となった八丈太鼓に目覚めさせてもいただきました。

鬼太鼓座/鼓童の座員のお一人で、私にとってのもう一人の「神」である近藤克次さんとの出会いも私にとっての大きな出来事の一つです。
お目にかかった回数は多くはありませんが、克次さん(私の苗字と同じなので、こうお呼びすることをお許しください)にも太鼓の基本、それは技術だけではなく考え方も、を教えていただきました。
あるときには、当時、私がもがき苦しんでいた八丈太鼓を教えて欲しいとお願いしたこともあります。
克次さんにとって、八丈太鼓を教えることはあまりないことだったのですが、快くお引き受けくださり、そのときに得えていただいたヒントは今でも私自身の演奏に組み込まれています。

話が、後先になりますが、和太鼓を打ち始めて10年が経った1990年ころ。
他のどの太鼓よりも八丈太鼓を上手くなりたい、と思うようになりました。
そして入会したのが「キタマダ」という太鼓愛好会でした。
その指導者であった遠藤芳雄先生。
私のその後の太鼓人生を決定づけてくださいました。
八丈太鼓に専念したい、と。

80歳を超えていらした遠藤先生。
とても厳しくご指導いただきました。

ほんの僅かなリズムの乱れも決して聴き逃すことはなく、指摘してくださいました。
また、その乱れを指摘するだけでなく、乱れが生じないようにするにはどういう打ち方をするのが良いのかもご指導くださいました。

毎回の練習では先生がお作りになった練習曲を全員で打ちます。
外部での演奏でもこの曲をみんなで打つことがあるので誤解されがちですが、この練習曲はあくまでも練習のためのものであって、みんなで打つことを八丈太鼓としているわけではありません。
この練習曲を繰り返し、繰り返し練習することによって、無駄なく手を動かせるように、また、良い音を出せるようになってゆきます。

先生の多くのご指導の中で、私が最も意識していたことは「良い音を出す」ということでした。

「一発だけでも聴く人を感動させることができる」
先生が常々おっしゃっていたお言葉です。

私はその教えを具現化することができず、遠藤先生に個人指導をお願いしたことがあります。

最初にやっていただいたことは打ち方のご指導でした。

ドーンと一打。

「違う」

打ち方を変えてまた一打。

「違う」

それを30分ほど続けました。
ようやく「それでいい」というお言葉をいただきましたが、その音を続けて出すことは今に至るまでとうとうできずに終わりました。

2019年2月。
遠藤先生がお亡くなりになりました。

私は目標を失い、また、他の太鼓も含めて、ちっとも上手くならないことに苛立ち、自分の上達を諦めました。
また、キタマダに不義理を働いてしまったこともあり、本格的に精進することをやめました。

2017年に地元で和太鼓の会を始めました。
障害者に太鼓を楽しむ場を提供したいと思ったのがその理由です。
現在、会員は20名近くになっています。
主に知的障害者とその保護者です。

私は太鼓を指導したことはなく、また、太鼓も持ち合わせていない。
しかも、車の運転もだいぶ前にやめているので、太鼓があったとしてもそれを運ぶ手立てもない。
それで和太鼓の会を作るとは、ずいぶん無謀なことをしたものです。

しかし、幸いなことにそのすべてを解決してくれる方が会に参加してくれ、今に至っています。
その方は太鼓協会の「和太鼓指導員」(だったかな)の資格を持っていて、太鼓を教え、楽しませる知識を豊富に持っています。
ただし、言っては申し訳ないのですが、技術の方はまったくお話になりません。
さらには、その方の太鼓に対する考え方も、私は受け入れることができません。

皮肉なことですが、このことが私に太鼓をやめることを決心させました。

私は自分が上手いとは決して思っていません。
しかし、先述の3人の指導者からたくさんのことを教えていただきました。
お三人とも超一流の太鼓奏者であり、指導者でいらっしゃいます。
教えていただいたことのほとんどは太鼓の基本となる考え方であり、技術です。

私の会で指導をお願いしている方の考え方も技術もそれらとまったく異なるのです。

いくつか例を挙げます。

先ず、太鼓の扱い。
練習場所に太鼓を配置するとき。
足を使って太鼓を動かします。
太鼓を床に置くときもとても乱暴です。

そして、その人の打つ太鼓の音。
「打つ」のではなく「引っ叩いている」。
ただ大きな音を出せば良いと思っている。
私にはとても汚い音にしか聞こえません。
しかし、太鼓に馴染みの薄い会員たちはそれに驚き、「すごーい」と感心する。
得意になって、さらに太鼓を引っ叩く。

外部での演奏で、その人と八丈太鼓を打つことがありました。
私と気持ちを合わせようとしない。
表でも裏でもただ早く打とうとする。

以前に私が演奏したときの動画をその人に見せたときのこと。
しっかりした下打ちのおかげで、私には珍しく、良い演奏だったと思っているものです。
しかし、その動画を見たときにその人が言ったこと。

「この下打ちの人は自分のペースで打っているだけですね」

この言葉が私の「会をやめる」という決心を決定づけました。

八丈太鼓のこともそうですが、下打ちと表のリズムの息が合って初めて演奏ができるという意識が感じられないのです。

自分で作った会であり、また、会員である保護者の方々があの場をとても喜んでくださっていることもあり、これまで我慢して続けてきました。
しかし、もうダメです。

私がこれまで習い、身につけてきたことと違いすぎます。

練習に使う太鼓はすべてその人が持っており、運んでもくれる。
指導も任せている。

私がいなくても会を続けることはできます。

今年中はこの会の外部での演奏の機会が続くので、今は会を離れることはできません。
それが年末に一区切りするので、年が明けたら、徐々に会を離れてゆくつもりでいます。

自分の上達はもうとっくに諦めている。
会の運営はこんな状態。

私には太鼓を続ける理由がもうないのです。

人と関われば必ず軋轢が生じます。
それを嫌がっていては社会で生活してゆくことはできません。
しかし、この歳になって思うことは、趣味の世界ではできるだけ静かに過ごしたいということです。
最近、写真への興味が復活しましたが、これならあまり人と関わることなく一人で楽しむことができます。
少し嬉しくないことといえば、せいぜい、他のSNSでのことですが、「いいね」が少ないことくらいでしょうか。
それはどうでもいいことです。

出会ってから40年、そして、後半は自分でも打ち続けてきた和太鼓。
十分楽しみました。
多くの人と出会いました。

もうこの辺でいいかな、と思います。