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あれもダメ、これもダメ

最近の話題から。

高校野球。
慶應の附属高校が優勝したんですね。
決勝戦には高校生や高校関係者だけでなく、慶應大学の関係者もたくさん詰めかけて大応援団になったようです。
みんなで慶應大学の校歌を歌い、肩を組んで観客席が人の波で揺れ動いているようだったとか。
歴史的な優勝なので、関係者としては熱が入ったことでしょう。
その応援の甲斐あって優勝しましたが、その応援に対して「高校野球にふさわしくない」「大学関係者まできて、まるで六大学の神宮球場のようだ」「相手チームはあの雰囲気に飲まれて負けた」「相手チームが可哀想」などなど、批判があると聞きました。
どうなんでしょう、これ。
もう何十年も前のことですが、銚子商業という高校の応援には必ず大漁旗が振られていました。
銚子港の漁師さんとしても応援したい気持ちがあるのは当然のことです。
しかし、それに対して「高校野球に大漁旗はいかがなものか」ということで以後、大漁旗は応援席から姿を消しました。

北海道で「OSO18」と呼ばれていた熊が駆除(というらしい)されたというニュース。
ここ4年くらい北海道各地で農作物を食べたり、家畜を襲って殺したりしていた熊です。
監視カメラにも映らず、足跡が大きいことから、賢くて、巨大な熊ではないかといった憶測がなされていました。
その行動範囲は広く、罠を仕掛けても見つかることはありませんでした。
複数の熊なのではないかとも思われましたが、足跡や残された体毛を検査した結果、1頭だということが分かっていました。
自治体は熊専門の猟師を何人も雇って追い続けてきたのが、やっと先週駆除された(殺された)とのことです。
これで被害を被ってきた人たちがやっと胸を撫で下ろすことができたのですが、これにも批判があるようです。
動物関係には必ずイチャモンをつけてくる動物愛護団体は「動物虐待だ!」、一般の人からも同じような批判があり、また、「退治した地区の住民ではない人がここで銃を撃ったのはけしからん」などの批判があり、その熊を撃った猟師は、お手柄なのに、名前を出せずにいると聞きました。

どうなんでしょう、こういう風潮。
最近、こうして、何でもかんでも批判されます。
ちょっと何かあると「けしからん!」という声が上がります。
そして、それに対して敏感に反応して、お詫びをしたり、何かを禁じたりする。

唐突ですが、「やすきよ漫才」という大阪の漫才コンビがいました。
横山やすしと西川きよし。
1970年代から80年代に人気を博し、大活躍しました。
今でも「この二人を超える漫才は出ない」と言われています。
それはそれは見事な漫才でYouTubeにもたくさん動画がありますが、おそらく、そのほとんどはテレビでは放送できないでしょう。
今でいう、蔑視用語はたくさん出てくるし、話題にも(下ネタということではなくて)目くじらを立てる人がいると思います。

私が好きな落語の演目の中には放送できないものがあるようです。
障害者をネタにしたり、吉原を舞台にした「郭噺」と呼ばれるものがそうです。
しかし、「鬼滅の刃」には「遊郭編」というものがあります。
見るのは落語よりも圧倒的に子どもが多いアニメ。
「遊郭」をいったいどう説明しているのでしょう。
「鬼滅の刃」は良くて、落語はダメなのか!と文句の一つも言いたくなります。
誰が判断するのか知りませんが、こうした矛盾があるのも現代の風潮だと思います。

何ごとにもさまざまな考えや意見があるのは当然のことです。
しかし、その声にあまりにも敏感に(と、私は思います)反応しすぎるのは何故なのでしょう。
何十年前にはできたことが、今はできないのは何故なのでしょう。
SNSの普及も一つの理由でしょう。
ちょっとした声が大きな反響を呼ぶ。
何かあると、みんなでいじめにかかる。
マスコミも盛んにそれを取り上げて、顔が知られているだけで中身のないタレントがしたり顔で「解説」し、放送局に都合の良い批判をする。

いろいろなことに制約がついて、どんどん自由さが失われてしまっています。
時代が進むにつれて発展し、広がってゆくべきものが、むしろ、その範囲が狭まってきています。
回転寿司店での愚かな若者のように、社会に節度がなくなってきているので、一律に禁止せざるを得ない面はあるのでしょう。

これから先、できることとして残るのは何なのでしょう。