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Ubiquitous

日本語では「ユビクタス」とか「ユビクィタス」と発音され、辞書によれば「いたる所にある」「どこにでもある」「遍在する」という意味に翻訳されています。

私がこの言葉を聞いたのは今から30年ほど前のこと、「Ubiquitous Computing」という言葉でした。

MS-DOSをOSとしたパソコンが普及し始め、Apple社がMacintoshを発表し、職場でようやく一人一台パソコンを使うようになり始めた時代です。
しかし、まだまだコンピュータは特別な人たちが使うものであり、企業などには人の背丈よりも高く、重さ何トンという「大型コンピュータ」と呼ばれたものが「電算室」や「事務管理室」といった空調のきいた部屋で大事に使われていました。
人が働く場所には空調がなくても電算室には空調がある、というほどコンピュータが大事にされていました。
それはそうでしょう。
1台の価格は千万単位でしたから。
そして、給与計算や財務関係の計算はすべてその大型コンピュータが一晩中かけて処理をし、ガチャガチャ、ギーギーとうるさい音のするプリンタで専用の用紙に打ち出し、それをユーザ部門の担当者が毎日決められた時刻に取りに行くという使われ方でした。
そのころに、「コンピュータがいたる所に存在し、しかもその存在にすら気付かなくなる時代が間もなくやってくる」「水道の蛇口をひねるように誰もがコンピュータを使うようになる」と言われても「そんなことが起こる訳がない」と疑問を思ったのは無理もないことです。

それがどうでしょう。
わずか30年足らずでその言葉通りの時代になりました。
今や多くの家庭にある「パソコン」という名のコンピュータはもちろんのこと、携帯電話や自動車、そしてほとんどの電化製品、さらには時計にも何らかの形でコンピュータが内蔵され、正に「いたる所に」コンピュータが使われています。
30年前の大型コンピュータよりもはるかに高機能のスマートフォンを多くの人が持ち歩き、何の抵抗もなく使っている。
しかも、私たちはコンピュータを使っているという意識すらありません。
あの「予言」通りの世界になりました。

その「予言」は、そうなることによって計算や記憶といった作業はコンピュータに任せ、人間は「考える」ことに専念できるようになるとも言っていました。
では、こちらの「予言」はその通りになったでしょうか。
残念ながら、そうはなっていなさそうです。
私たちは自分の行動すらコンピュータの言いなりになってはいないでしょうか。
例えば、考えることが楽しいはずの恋人への贈り物すらインターネットで提案された通りのモノを、しかも自分で買いに行くことなく「ポチる」ことで、いながらにして贈ることができる。
どこに旅行に行くか、どこで何を食べるか、子供をどう育てたらいいのか等など、みんなコンピュータが教えてくれる。
さらには、話し相手も自分の悩みを相談するのもコンピュータを介したインターネットやコンピュータ内蔵のロボットで済んでしまう。
近い将来には介護もロボットがやってくれるようになるとも聞きます。
もちろん、それを必要としている人たちもいるでしょう。
しかし、私たちはいったい何を考えるようになったのでしょう。

今、コンピュータと同じく発達しているものの一つに交通手段があります。
新幹線の速度が速くなり、さらに速いリニアモーターカーも実用間近のようです。
何故でしょう。
何故、そんなに急がなくてはならないのでしょう。
今のコロナ騒ぎで注目されているリモート会議、テレビ会議では済まないのでしょうか。

輸送手段の発達による効果の一つは人と人が会う機会が容易になることにあることにあります。
企業では交通費という経費を削減する必要からテレビ会議が普及してゆくのかもしれません。
しかし、やはりコンピュータに頼らずに人同士が会って話すことは公私ともに大切なものであって欲しいと思います。
相手に対する思いやり、気づかいなど、実際に会わなければ分からないこと、失ってしまうものがたくさんあるはずです。
これらのことは人と人とが実際に会うことで身に付いてゆくことではないでしょうか。

どんなにコンピュータが発達しても「思いやり」の気持ちは「Ubiquitous」であって欲しいものです。