できない?しない?
この場に何度か書いていますが、私は長年太鼓を稽古してきました。
週末だけでなく、平日の夜も仕事を終えてから週に2、3回稽古に通っていた時期もあります。
それほど熱中していた太鼓ですが、あるときから、稽古に向かおうとすると気が重くなり、電車に乗れなくなりました。
好きな太鼓の稽古に行くのに何故「行けない」のだろう。
自分でも不思議でなりませんでした。
当初は持病のせいで電車に乗れなくなったのだろうと思っていました。
そんなとき、ハッと気づいたことがあります。
それは、「行けない」のではなく「行かない」のではないか、ということです。
人の行動にはほとんどの場合、目的があります。
では、そのときの私の「稽古に行かない」目的は何か?
その頃はとても厳しい先生に師事していました。
先生の前で太鼓を打ち、講評をいただく。
その厳しいこと。
褒められたことはほとんどありません。
「褒められた」と言ってもせいぜい「前よりはマシになった」という、褒められているのかどうか分からないようなものでした。
毎回、稽古の帰り道は「今日もダメだった」とうなだれていたものです。
もちろん、先生のおっしゃることは納得がいくし、その通りです。
それを実現できない自分が情けない。
そんな気持ちでした。
私が稽古に「行けなくなった」のは、こういう思いをしたくなかったから、自ら「行かない」という選択をしたのだったと思います。
「できなかった」のではなく「しなかった」。
そして、その目的が見えると「できない」という課題の解決につながりそうです。
ご高齢だったその厳しい先生は最近お亡くなりになり、私は「太鼓をやめる」という選択をしたのでした。
その目的は、先生がいなくなった寂しさを思い出さないため。