「日本人」って誰のこと?
ツイッターのハッシュタグのトレンドに、気になるものがランクインしていた。「日本」が「日本人のもの」だと謳ったものだ。そういえば、朝は朝で、ある化粧品会社の社長が人種差別的なことを書いて、大炎上していた。それもあって、ハッシュタグが気になったのかもしれない。なぜ、どう気になったのか書いてみたい(忙しいんだけど)。
固定されるアイデンティティ
「日本人のもの」というとき、「日本人」とは誰のことを指すのだろうか。
実は、文化も、言語も、人のアイデンティティも、本来、グラデーションのように存在している。
私たちはよく「日本文化」という言い方をし、それはそれで何かを言い当てているような感覚はある。つまり、認識論としては機能している。
しかし、日本文化を存在論として考えたとき、そもそも日本文化って何だろうか。お箸は日本文化? 焼き物は? 着物? お辞儀? 確かに私たちはそういうものに「日本文化」的な匂いを感じる。しかし、だからと言ってそれらは「日本文化」なのかというと、実際日本にあるものの多くは中国に由来するものだ。厳密にいえばコピーに過ぎない、ということになる。
言語も同じように、日本語という言葉だって現代の日本語と1000年前の日本語は大いに異なっているはずだ。また、日本語の方言だと思われている津軽弁や鹿児島弁でこてこてのものは、同じ日本語のはずなのに「理解できない」ということが起こりうる。逆に、ルクセンブルク語とドイツ語は違う2つの言葉とカウントされるのに、実際はルクセンブルク語が話されているのをドイツ語話者が聞くと、その内容が分かるという。前者は、同じ言語なのに理解できず、後者は違う言語なのに理解できる。
なぜこんなことが起こるのか、というと、先に述べたように、文化、言語、社会、アイデンティティのような人間的な現象は、存在論としてはもともと雑多で移り変わるものであり、その動きに対し認識論として輪郭が与えられているからである。
例えるならば、それらは虹のようなものといえる。同じ虹を見ていても、虹が何色なのか、その切れ目の入れ方は文化によって異なる。少ないところでは2色と答えるところもあるらしい。
つまり、グラデーションとして存在する虹を「7」色に分節するように、文化、言語、社会、アイデンティティに対し、ある観点から「事後的」に切れ目を入れたとき、私たちは「赤」「黄色」とか「ルクセンブルク語」「ドイツ語」のように、意味ある単位として固定することができる。
その「区切り方」の習慣として、典型的に持ち出されるのが「日本」である。日本文化、日本語、日本社会、日本人、というように。つまり、本来流動的なものを「日本」というピンで固定することによって、文化、言語、社会、アイデンティティが「日本〇〇」という形で現れる、という構造になっているのだ。
日本人を規定する日本国家
では、「日本」人という認識を可能にしている、「日本」というピンとは何か。
もちろん、それは国家の名称、すなわち政治体制のことだ。ちなみに、日出国という意味の「日本」という名称だが、「太陽が昇る」のを眺める視線はどこにあるのか、と敢えて問われることはない。しかし、太陽が「東」から昇るということの意味を考えればわかるだろう。そう、それは中国から見て日が昇る国が日本だということを示している。先の箸や焼き物だけではなく、国家の名称自体に、実は中国の視線が刻印されているのである(参照:内田樹『日本辺境論』)。
さて、日本が国家の名称であるということはわったところで、「日本人」とは誰かという問いに帰ろう。「日本人」が「日本」の人であるのならば、その答えは、日本国家がメンバー(国民)と認めた人のことである。言い換えれば、「誰が日本人か」への解答は、国家が誰をメンバーとして認め、誰を排除しているかに依存しているということである。
つまり、そこにはメンバーシップに対する「選別」への国家的な意図がある。
ということは、「日本は日本人のもの」という、日本を日本人の所有物であるように見なすハッシュタグは実際は正確ではない。というのも、「日本は日本人のもの」というとき、主体は「日本人」にある。しかし、今見てきたことにもとづくと、逆に、日本国家の方が主体となって、日本人を規定しているのである。つまり、パスポートを持てる資格を決めるのは国家であり、おそらく難民条約を批准しているこの国ではあるが、日本は慣習的にその選別が極めて厳しいのである。
「血」の言説
では、誰が日本人と認められているのか。単純な答えだが、それは日本人と認められた人の子どもであること。ある意味、世襲制のようなものだ。すなわち、そこには「純血思想」がある。
そもそも血液という液体の何をもって「純血」と呼び、何をもって「混血」区別するのだろうか。認識論の話と同じく、ここにも「線引き」の癖が関与している。
例えば、私の場合、自分が知る限り「日本人の純血」になるわけだが、そのときの私の「純血」は一体他の何と違のか。赤血球にmade in Japanとでも刻印でもされているのだろうか。血は血であり、国境という恣意的な境界線の内外に関係なく、輸血したらどれも一緒のはずだが。
そもそも、誰もが自分の生物学的な父と生物学的な母の「混血」なのである。その「混血」を日本国家というピンに依拠することで、それを「純血」というラベルに変えてしまう。日本人の血液というものが「存在」しているのではない。ある混血だけを、事後的に「日本」という国家名を使って、「純血」として意味づけているに過ぎないのである。
問題の所在
私は別に、「だから『日本〇〇』と呼ぶのをやめようとか、「そういうものは意味がない」、と言いたいのではない。そう呼びたい欲望が存在する限り、「日本〇〇」が指し示す何か(シニフィエ)は確かに存在することには間違いはない。問題はそこにあるのではない。
経済格差で考えてみよう。
自分がどの国に何人として生まれるか選べないのと同じように、赤ちゃんは生まれる家や親を選べない。運命としてただそこに産み落とされるのみである。政治家や億万長者の家に生を受ける子がいる一方で、お金に貧窮している家庭に生まれる子もいる。
確かに、お金持ちに生まれたことは自身が選んだことではないし、それ自体は何も批判されることではない。ただ、お金に困っている家庭に生まれた子の運命を仕方がないとし、自身は潤沢な資産を投資に私腹を肥やす一方、脱税したり公共福祉のために税金が使われることを望まないとすればどうだろう。
「日本は日本人のもの」という考え方は、こういう現実に対し、「お金はお金持ちのもの」と言いことに近い。
つまり、私が問題にしているのは、「日本〇〇」と認識していること自体ではない。そうではなく、「日本〇〇」を可能にしている認識論の作用を無視し、ベタにそれを存在論的に信じることで、結果誰かを差別し、その差別の恩恵として自分の特権を当然のものと考えるナイーブさや、それに気づくために必要な想像力の欠如が問題なのである。
そういうと、そんなことでは日本が他国にやられてしまう、他国に植民地化される、と危機感を煽る人がいるかもしれない。確かに。しかし、それは日本国家の「政治」の話であり、「外交」の問題である。そこに日本人論は関係ない。
実際、日本国家が国籍の門戸を広げ、日本国家のメンバーとしてより多くの人々を迎え入れ、その人たちが政治の世界に打って出るというシナリオだって考えられるはずだ。「多言語多民族多文化国家」だってある。やがて「純血の日本人」が首相になることがあるかもしれない。もしそれを許しがたいと感じるのならば、政治や外交の話をあげつつも、結局その奥底にあるのは、国家アイデンティティやそれによって得られる自分の既得権を死守したいという、個人の密かな欲望である。
「日本人」という物語
人は物語を生きている。自分の人生も、単なる事実の集積ではなく、事実の何にスポットライトを当て、何を無視し、物語として紡がれたものである。だから、あることをきっかけに人生を見つめなおし、物語が書き換えれることがある。
桃太郎や一寸法師、鬼や天狗、トトロやこびとづかんに出てくる個性的なこびとたち、皆フィクションであるのと同じように、日本人論というものも、一つの物語であると言える。というのも、上記のように、「日本人」が即自的に存在するのではなく、実在するかのように認識論上生み出されたものであるからだ。
私たちがみな物語を生きているということ自体は、人間の構造上の性質であるが、問題はどのような物語を生きているか。自分が生きる物語を自覚したり、それが及ぼしうる作用を内省したりできること、それは「大人」である、ということだ。「日本人」の存在を無垢に信じることは、ファンタジーに生きる子どものようであり、それ自体が無害であるうちはよいが、その物語が例えば差別や搾取を生み出すとき、私たちはそれを批判し、けん制するという大人の物語を持っておかなければならない。
豊かな経験を育もう
ただし、日本人論に潜む差別意識を問題だとする一方、その責任を主張者本人のみに帰属させるのは酷である、とも思う。というのも、まさに彼ら彼女らもこの日本国家の中に産み落とされ、その慣習のなかで思考や価値観を醸成してきたからである。視野が狭く、経験値が低いのは、本人のせいというより、当初のスタートからそう条件づけられている、と言うことも十分できよう。
だとすれば、ただ日本人論を批判するのではなく、社会や日常生活、教育のなかで「日本〇〇」という固定化した狭い認識論に固執しないよう、それ以外の広い見方やユアかな経験を仕掛けていく必要があるだろう。
私が携わっている英語教育もその一つだ。
「日本」語の世界では、英語は「外国」語として表象されざるを得ないために、どうしても内―外の区別を残してしまう。ちなみに、「日本」語ではnative languageのことを「母国語」と呼びがちだが、英語のそれに「国」という概念は介在していないことが見て取れるだろう。そもそもnativeとは「自分が生まれた」「天然の」「自然の」とかいう意味であり、自分が産み落とされた言語共同体において身に付けたことばのことを指す。その直近のものは、「日本語」とか「英語」という大々的なものではなく、自分の身の回りの人たちの言葉であり、その人たちとのコミュニケーションによって獲得した言葉なのであり(往々にしてそれは親であり、母であるのでmother tongueとも呼ばれる)、訳すなら「母語」で十分なのである(もちろん、母でなくてもよいので、別の意味で考えるべき点はあるが)。
マルクス・ガブリエルが批判する自然主義がはびこる現代において、言語は個人が利用する道具であるかのように捉えられている。しかし、言語が道具なら、詐欺のために使うこともできるし、テロを計画するために用いることだってできる。また、便利な道具だということをいくら強調したところで、自分には必要ないという人には必要性の主張がかえって勉強する必要がないという言い訳になってしまう。
本来、「外国」語を学ぶことは、その言葉を使って生活している人たちの内側から物事を見る視点に触れることであり、教育学者の佐藤学さんの表現を借用すれば、「もうひとつの言語世界を自分の中に築くこと」である(大津由紀雄編著『危機に立つ英語教育』)。それは他者との「絆」でもあり、自己内に異文化を住まわせることで多文化共生社会を体現することでもある。言い換えれば、他者の世界に飛び込み、身を委ねてみることであり、自己を保持しつつも変化していく自分を受け入れることでもあり、あるいは、複眼的に物事を捉えるための新たな視点を手に入れることである。
先に述べたように、それは「大人になること」の比喩であり実践だということだ。逆に、「日本〇〇」に安住し、変化を拒み、一つのレンズからしか物事を見ることができないとすれば、それこそ子どもが陥るトラップそのものである。
日本人論といっても、論の精密さという意味ではピンからキリまである。しかし、ナイーブに消費される日本人論の多くは「論」と呼ぶにはイメージや欲望にのみ支えられたものであり、その人の「未熟さ」を露呈してしまう。まずは、自分がかけている「日本人論」という色眼鏡に気づくことから始めたい。