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「構え」をあらためたら、「段落」というブロックを積もう

2月になった。期末レポートの執筆がいくつか溜まっている方もいるだろう。その前に、前に出してもらったレポートを返しておかねば、と一気に朱入れし、返却を進めている。これまでレポートについて感じてきたことを、今回さらに強く感じたこともあり、noteで書いてみた。

ただ、構えだけではレポートは書かない。そこから論を紡いでいかなければならない。今日は簡単に、論の紡ぎ方を書いておこう。

その前に少し迂回して、「話す」と「書く」の相互作用と私たちの知性の発展との関係についてみておきたい。

「話す」ように「書く」新しい習慣

レポートを書いてきてというと、段落に区切ることなく、最初から最後まで一段落で一気に書いているレポートに出会うことが最近は少なくない。思うに、vol.2で触れたとおり、こういうレポートの筆者の方々は、論の流れを事前に計画せず、頭に思うことを徒然なるままに、つらつらと流れるように書下ろしているのではないか。

もっとも内容は悪くない。ただ、この場合だらだらと書かれている場合が多く、「流れるように書いている」結果、論としては流れていないのである。

なぜこんな一段落レポートが増えてきたかのか、思い当たる節がある。それは、現在多くの人たちが日常で何かを「書く」場合、あたかも「話す」かのように「書く」のが習慣化しているからだ。

書くことで「思考」を鍛える

ウォルター・オングが、著書『声の文化と文字の文化』で、面白いことを言っている。

そもそも文字がなかった時代、人は記憶の保持のため、文字で書き留めることができなかった。そこでどうしたか、というと、覚えやすいように言葉を編んだ。今も国語などで、対句とか韻とか習ったことがあると思うが、あれも覚えやすくするための人類の工夫の一種である。また、歌や詩にすると、音楽やリズムに乗せて覚えやすいが、それもそうだ。つまり、口承文化においては、このような工夫をしながら記憶を保持し、次の世代に記憶を語り継いでいったのである。

そこに「文字」が登場する。すると、これまで頭の中に互いに引きはがされることなく、混在していた断片的記憶が、文字として形を与えられることによって、頭から飛び出し、目の前に現れることになった。記憶のアウトソーシングといってもよいだろう。こうして、私たちは視覚的に、自分の頭の中に展開している「考え」のようなものを発見することに成功した。

しかも、視覚化されたことによって、それを自由に操作することも可能になった。特に、Wordのような便利なものが出たことで、簡単に、段落を入れ替えたり、表現を部分的に修正したり、足りないところを書き加えることができるようになった。つまり、原稿のようなものを書き、それを「推敲」することを覚えた

これは私たちの思考が「客観」という視点を獲得したことを意味する。つまり、これまで頭の中に混在していた考えの断片を、文字を使って可視化したとき、私たちは自分の思考から距離を取り、客体化することができるようになった。そして、それを上記のように操作する術を覚えた。こうして、私たちは書くことを通して、物事を客観的に見たり、俯瞰したり、多面的に見たり、あるいは批判的に検証することができるようになったのだ。

よく「読み」「書き」「そろばん」というように、学問は読み書きを通してするのは、そのためだ。私たちは、書き言葉を通して、賢くなろうとしているのだ。

なぜ、大学という学問の最高機関において、「レポートを書かせる」のか。それは、レポートを書くことで、みなさんの「思考が鍛えられる」ことをねらっているからなのだ。

筋肉を鍛えるならば、腕立て伏せや腹筋をすればいい。では、脳や思考を鍛えるにはどうすればいいか。「脳立て伏せ」なんてものがあればいいが、そんなものはない。だから、私たちは「読み書き」の言葉をとして、脳を鍛えているのである。レポートを書くのは、「脳立て伏せ」の代わりなのである。

脳を鍛えるはずの書き言葉が・・・

このように、大学でレポートを書くことによって、みんなの脳は鍛えられ、思考は深まる。今では、発表形式の活動も多く取り入られるようになったが、それは私たちが「書く」思考が内在化したためだ。

原稿を書き、推敲し、それを頭にいれる。こうして「書き言葉」で鍛えた思考を活かして、今度は、あたかも書いたかのように話すこともできるようになったのだ。卒論を書き、発表会で報告、「コミュニケーションの構え」で聴き手と意見を直接交わす。なんてアカデミックな。大学とは、本来そのような場所だと想定されていたのである。

たしかに、書き言葉はこのように脳を鍛えるはずだった。ここまではオングが詳細に議論したとおりだったと思う。しかし、時代は思わぬ方向に進化した。SNSの登場である。

どういうことかというと、私たちはSNSに書くとき、論理的に物事を考え、深く思考し、推敲し、書いているか。普通は否だろう。どう書いているかというと、「話す(おしゃべりする)ように書いている」のである。

もはやレポートでは「思考」が深められなくなった

最初はブログだった。そこではまだ、多くの人がいろんな主張を長文でつづっていた。noteもその延長にあるSNSだ。しかし、Facebookが登場し、交流が目的になったとき、徐々に変化が現れる。僕のようなおじさんは、よく長々とした文をFacebookに書くことがあるが、若い方はあまりそういう使い方をしない。そもそもFacebook離れが進んでいるのではないか。

その代わり、人は「つぶやく」ように書くようになった。そう、Twitterだ。140字で書くように設計されたTwitterは、そういうアーキテクチャゆえに、長々と文章を書くことを最初から制限する。つまり、そこでは「思考」が始まるまえに、送信しなければならないのである。長文を書こうとしたら、それは短文の繰り返しとなってしまう。

さらには、即座に飛び交うつぶやきは、物事を熟考する時間を人々から奪ってしまう脳を経由する前に、感情のままファースト・リアクションとしてつぶやくように書いてしまうのである。極めつけはLINEだろう。そこでは、もはや「了解」が「りょ」となり、「よろしく」が「よろ」となるように、単語さえ成立しにくい世界なのである。

最近「ですます調」で書くレポートが増えていることも、この現象に関係しているだろう。そこには、書くときに避けて通れない、思考をまとめる苦悩や言葉がうまくまとまらないもどかしさもなければ、かしこまった空気もない。とてもさわやかに、はきはきと「語って」いるのである。「~です。というか、〇〇」や「~~だなと思いました」という表現を読んでいると、読んでいるのに学生と(声を介して)「話」をしている気分になる。

迂回が長くなった。まとめよう。文字がなかった「話す」だけの世界から、文字によって「書く」世界が誕生した。それによって鍛えられた脳は、「書くように話す」ことができるまでに、人の能力(脳力)を最大限に向上させた。だから、大学ではレポートを書く。しかし、昨今のSNSの発展により、人は「話す(おしゃべりする)ように書く」習慣を身に付けてしまった。その結果、「レポート」から「思考を鍛える」という意義がはく奪されつつある。そして、「レポート」は徐々に「おしゃべり」や「井戸端会議」へと化している。

「レポートが書けない」のは「構え」を知らないから、と前回主張した。しかし、思考する「技術」さえも、今日のネット環境は奪いつつあり、それがさらに「レポート」を書けなくさせている。これが私の思う「現状」だ。

「段落」というブロックを作ろう

「話すように書く」ことを内在化しつつある今日、それに抗うには、やはりレポートを「正しい」構えで書き、「正しく」書けるための基本的な技術だけは磨いておくことだろう。

その鍵となるのは、「段落」である。

段落とは、文章のまとまりのことだ。先の例のような一段落で書いているレポートは、段落がないに等しい。というのも、段落とは他の段落との論点の違いをもとに「区切る」ことにより、成立するものだから。この「区切る」という作業なしに段落は成立せず、区切るために「論点」を探ることに「思考」する契機があるからだ。

論点を区切って作られた段落こそ、思考を積み上げるための「ブロック」になる。一枚岩では家は建てられないが、ブロックになることによって、オオカミの息でもびくともしない頑丈な家が建てられるように、レポートとは、段落という「ブロック」を順番に積み上げることによって、書かれるものなのである。

なお、ここで紹介するのは、特に新しいアイデアではない。文を書く時にはよく紹介される、「パラグラフ・ライティング」という手法である(「paragraph=段落」)。段落の作り方の基礎の基礎を押さえれば、誰もが頭の整理の仕方をマスターすることができる。以下、どういう風に段落という「ブロック」を作り、どう積み上げていけばいいのかを、概観しよう(詳細は、以下のページを参考にされるといいでしょう;ここではパラグラフライティングのポイント3つに留めます)。

【ポイント1】段落1つにつき、1つのメインアイデア

世の中にはいろんなブロックがあるが、そのなかの1つを取って見てみると、そのブロックは同じ色、同じ素材で作られているはずだ。色や素材が混ざっていない。

段落も同じように、基本一つの段落には1つのメインアイデアしか入れない。そして、段落内で、その1つのメインアイデアの説明に全力を尽くすのである。もし、同じ段落の中に論点が2つ以上混在していたら、その時点でその段落は問題を抱えてしまう可能性がある。ブロックのなかに茶と白が混ざったり、つるつる素材とざらざら素材が混じったりすると、不良品になってしまうように。

【ポイント2】メインアイデアを段落の最初に置く

ちょっとドライな書き方だが、段落内の唯一のメインアイデアは、基本段落の最初に置く。そして、その段落ではそのメインアイデアを「自分の意見を異にする他者に対して説得するコミュニケーションゲーム」(「構え」1)において、丁寧に言葉を尽くして、説明するのである。最初に命題、その後はその論証といった感じだ。

このようにエッセイを書いていくにあたり、段落がいくつか並んだとしよう、この際、それぞれの段落の最初1行を見ていけば、全体の論の流れが見える、という流れになる。

もちろん、これらは基本形であり、実際は崩すことができる。このことは「構え」2の方に書いたので、関連個所を引用しておく。

なお、これは基本の話。しかし、いったんこの基本が内在化され、ある程度熟練した書き手になったら、直接的な答えを中心にまとめようとさえすれば、書きながら考えることは可能だろう。ただし、これはあくまでも応用。基礎もなく書きながら考えるのは、単なる無計画としかいいようがない。
応用ができる人は、考えながら書いてもきちんと着地できる。結論が分かっていないまま書き始めても、信じるに値する自分の直感があり、最後には妥当な結論へとたどり着くものなのだ。
野球でもサッカーでも、バスケ、剣道、テニスでも、あるいは、ギターやドラム、ベースでも、うまくなるために必要な基礎の基礎というものがある。野球であれば我流にバットを振るだけではだめで、きちんと素振りができる。否、素振りができることが目的ではなく、素振りは基礎を体得させるための手段だ。基本的な型が身につけば、そこからはみ出るところに「自由」な表現が生まれてくる。

*サポートの仕方などは、先のパラグラフ・ライティングのページを参照にされたい。なお、イメージとして英作文の授業で使った図をシェアしておく。

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おわりに

ということで、以上のような形で一つのメインアイデアで一つの段落を作成すれば、後は、それを順番に続け、自然に結びつくようにすればよい。考えとしては、きわめて単純でドライだが、基本形としてそういう思考を持っておくと、レポートが書きやすくなる。あとは、

構え1「レポートはわからずやの相手とのコミュニケーション」

構え2-1「与えられた問へ直接的に答え、それを中心に論を構成する」

構え2-2「書きながら考えず、事前に答えとそこにたどり着く手順を理解して書き始める」

を忘れずに。I wish you good luck!

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