引きこもり日誌・13日目

2020年4月20日(月)

 あいかわらず日誌を書く気力がない。こんなときにはさらっと書きとめておく程度でよろしかろうと思うのだけど、その程度であればいつでも書けてしまうので、いつまでも書かないことになる。

 依然として学費の減免や返還をめぐる署名活動は続いていて、というよりむしろその数を増しており、「早慶学費減額プロジェクト」なる多少奇っ怪なものまであらわれている。なぜ別法人である早稲田大学と慶應義塾大学に対してひとつの署名活動を行うことが戦略的に有効だと判断されたのかぼくにはよくわからないのだが、そもそも(普段から学費の減額や無償化を求めることもなく——これはつまり国家的な政策として要求するということだ)コロナウイルスの感染拡大防止という一大学の問題や責任おさまらないことがらを根拠に、さらには法/契約的・財務的な検討を慎重に行わぬまま、「プロジェクト」だの「署名活動」だのを立ち上げ呼びかけてしまう身ぶりは、あまりに無邪気すぎるのではないかと思う。もっとも無邪気に要求すること、それは政治的にはきわめて重要な力学ではあるのだが、その身ぶりにぼくが同調することはないというだけである。
 「あなたに大学を愛しているとは言わせない」というのは、さる批評家に魅了されて思わず口走ってしまった文句だが、まさにその一文につきているのが現状ではないか。もちろん愛してしまったがゆえに傷つけたり破壊してしまうこともあるだろう。しかしそのような衝動さえ「署名活動」には感じないというのが本音だ。解体しようというわけでもなければ、組み上げてみせようという野心もない。ただひたすらこの純情な思いをあらわせば、届けられたなら、きっと都合よいかたちに変わっていくだろう。そう信じているのは結構だが、大学など所詮はひとつの「制度」に過ぎず、すくなくとも短期的に、独りでに変化してゆくことなどない。どこかで誰かが検討し、構想し、修正し、少しずつ作り変えている。そうであるなら、その過程に参入することを考えるべきではないのか。「改革」の旗印を掲げ、威勢のよい言葉をならべるのは結構だが、それよりもいまここで、眼のまえのところに、ひとつでも「変化」を立ち上げていくほうがよろしいのではないかとぼくは信じる。それは保守反動めいて聞こえるかも知れないが、ひたすら愚直に戦略と戦術をつみあげてゆくという反復にそれを超える批評的な契機を認めようとするこの途方もないラディカルさを知覚できない感性を、ぼくはけっして信用しないことに決めている。そして愛とは、どこまでも愚鈍に振る舞ってしまうこと。しかしそのなかでとつぜん踏み越えてしまう。眩暈に貫かれ、そのときには世界が一変してしまう、崩壊感覚にも似たなにか。そんな過剰さの不意撃ちを受けとめてみせようという「指さき」こそ「愛」にほかならないはずだが、やはりあなたに愛しているとは言わせない。

お金があると本を買えます。