引きこもり日誌・28日目

2020年5月5日(火)

 またあまり書くことのない一日。
 
 13時からオンライン会議があり、といってもさほど重要なものではなく、ただひたすら画面をみつめるのがしんどくなって、マイクをミュートして、ベッドに寝っ転がり、映像の外へフレームアウトして、音声だけをぼんやり聴いていた。引きこもり生活によって社交性が落ちるということはあり得るかもしれない。ただ、それはひろく懸念の声が聞かれるようなコミュニケーション能力の衰えなどではなく、関心のないことには徹底して関心が向かないという断固たる意思の行使としてあらわれるだろう。ぼくたちはスイッチを切ることができる。

 夜。これから始まる読書会のために、発起人の方と、Zoomを試してみることになった。参加者は4人。みな同じ大学の学生だから、学部名での自己紹介になる。そのときの「法学部」と口にする、収まりのつかなさ。それは他の参加者がみな文学部と文化構想学部だったからという疎外感ではない。たしかにぼくは法学部生だ。「法」というものには強く関心があるし、自分の学部時代の専攻はローマ法を中心とした西洋法制史と法思想史だと思っている。しかし、そこで「法学部」だと口にすることによって引き受けさせられるものが、ぼくが「法学部」の学生として引き受けているもの/いくものと妙にズレているような感覚がいつも拭えない。そしてあわてて言葉をつけたして弁明しようと思っても、自己紹介という時間の枠は、たいてい十分なことばを紡ぎだすには短すぎる。そもそもぼく自身も、自分がどのような「分野」をやっているのか説明しあぐねている。分野名をとにかく並べてみるだけでは芸がないと勝手に思い込んでおり、かといって関心のあるテーマを述べてみても、どうにも表面的で、散漫な印象があり、しかしじつのところ自分のなかではすべての関心がつながって、ひとつの体系なりリゾーム的な連関なりを形づくっているように直感しているのだけど、うまく説明することはまだできない。もどかしい、居心地の悪さ。とはいえ、そこに可能性が開かれるはずだとも信じており、この「放蕩」に賭けてみたい。

 地震が起こる。空間が揺れる。だが正直、それがぼくの立ったり座ったり寝そべったりしているこの地表ぜんたいが実際に揺れているものなのかどうか、いつも掴みきれていないというのが本音だ。というのは、どうにも最近ぼくの世界はつねにゆらゆらと揺れているような気がして、気力をうしなってベッドに寝転んでいるときなど、妙に揺れているような感じがする。あるいは心臓の拍動なのかもしれないし、ぼくのアパートとそれを取り巻く周囲の家々に住む人びとのいとなみが、微妙な揺れを生じさせているのかもしれない。足音や移動する気配はよく感じられる。それとも、このベッドの建てつけがよくないのだろうか。しかしいつも揺れているような「不安」。つねに脅かされているかのような。ぼくたちは不安定な大地によって立つ。そうか、そうではないか。ぼくらはいつも「不安」に包みこまれている。それは決して、つねにぼくたちを痛めつけるように作用するわけではない。むしろぼくたちが痛み、傷つけられるのを守っている。だから普段はそれほど不安の存在を意識しないのだ。それが知覚されるとき、わたしたちが不安をおぼえるときというのは、むしろ、ぼくたちがいつもは包みこまれていたはずの「不安」から「剥き出し」になった瞬間ではないのか。緩衝帯としての不安や怯えや畏れをうしなったとき、わたしたちは自分自身ですべて引き受けてゆくことになる。

お金があると本を買えます。