引きこもり日誌・9日目

2020年4月16日(木)

 今日はひさしぶりにリアルタイムに日誌をつけている。

 昨日に引き続き、大学の空間性や身体性について考えている。あるいは、身体によって空間を立ち上げていくという「場」として「大学」や「紙の書物」を捉えてみせようというのがぼくの関心の中心にあって、一昨日書いていた「紙の書物というかたちでテクストを読む」ことについての論考も、昨日投稿した「大学」が様々な人びとや施設が「集まっている」というキャンパスの「空間性」によって成り立っているのではないかというツイートも、おなじ関心の射程のなかに収まっているのだとも説明できる。
 そのような感覚や関心はかねてより持ち合わせていて、だからぼくの部屋には「空間」や「身体性」について論じられた文献がそれなりに集まってきているのだが、今日もその中からいくつか引き出して、気の向くままに読み進めてみよう。

 まずは渡邊守章『パリ感覚』(岩波現代文庫)を読む。
 パリを訪れたことがない。ぼくがヨーロッパ大陸で知っているのは、オーストリアのウィーン・ザルツブルク・グラーツと、エストニアのタリンだけだ。距離でいえば多分ロンドンのほうがパリに近いがこちらは海峡を隔てている。けれども、パリの街にはずっと魅了されてきたし、テクストを介して、ほかの都市よりも多くのことを見知っているようにも思われる。そういえば中学生のころ、教科書に載った「ルリユールおじさん」をめぐるエッセイの「挿絵」に見入ってしまい——文章も好きだったし、教科書の出典元となった本も買った——文中に出てくるわずかな地名と、そこに描かれた景色を追いかけて、数時間Googleマップのストリートビューで、パリの街をさまよい歩いた記憶もよみがえる。いつか訪れようと思いながら、ようやくこの秋頃に、地中海沿岸を回りつつパリにも足を伸ばしてみようかと考えていたのだが、どうにもこの状況では、とうぶん訪問するのは難しそうだ。
 ところで、渡邊守章『パリ感覚』の第1章は、「サン=ルイ島の東の端を横切ってセーヌにかかるシェリー橋」にはじまっている。渡邊にとって、その橋からの景観には、「かの1968年《5月革命》の際の記憶が、焼き付いて離れない」のだという。そこで革命下パリでの生活をめぐって、渡邊がつぎのように書きだしているのが興味深い。とくにコロナ下(/禍)に生きるわれわれは、その指摘を心して読んでおきたい。そこには、このように書かれている。
 「確かに『買いだめ』とか、銀行さえ閉まって給料も出ないといった『社会不安』はあり『ブルジョワジーは戦慄した』と言われるが、どこも陽気な5月の日々であり、ガソリンのあった最後の日など、郊外のレストランはどこも満員。束の間の、そして予想杯のヴァカンスを楽しんでいるのじゃないかと疑われるほどであって、「革命」とか「占領下」とかいうものには、外から想像するのとは随分違う「奇妙な日常性」があるものだ、とつくづく思った記憶がある。」 p.31
 そういえば戦中の東京にあった「奇妙な日常性」については、蓮實重彦も何度か言及していたはずだと思い出す。なによりいま、コロナ下の社会——そこではウイルスに対し「戦争」というメタファーが用いられたり、「緊急事態宣言」なる革命的な表現が社会を埋めつくしている——における「奇妙な日常性」を、どのようにもち続けてゆくかということを、ぼくたちは意識しておく必要がある。

 さらに読み進めていく。都市と「河」。たちまち思い浮かぶのは、ヴェネツィアや江戸=東京の都市空間を「水辺」から浮かび上がらせてみせた、陣内秀信の著作群だ。
 あるいはその先に指摘されている、ヨーロッパの街路の「閉鎖性」も興味深い。「ブールヴァール(大通り)というのだから一応かなり広いはずのとおりでも、一方をバリケードで塞ぎ、他方を機動隊が塞ぐと、完全に閉ざされた空間が現出する」(p.48)という。「そのような空間に何らかの具合で入ってしまったら、建物の中に逃げ込む以外に、文字通り逃げ場はなくなってしまうのだ。」(同頁)

 第二章へ行く、「大聖堂の光と闇」。その最初の見開きに、ノートル=ダム大聖堂の写真が掲げられている。「ゴチック建築」という「心奪われるイメージ」(p.55)。そこで脳裏をよぎるのは、部屋のなかに、東京大学出版会から1月に出た、土居義岳『建築の聖なるもの』が積まれっぱなしだということだ。19世紀末から20世紀にかけての「聖なるもの」という概念が、フランスの「建築」にどのような影響を与えたのか。終わりのほうでバタイユが引かれていたのが記憶に残っている。この機会に読んでおこう——と決意しながら、いまは渡邊守章の『パリ感覚』だ。

 大聖堂のオルガン。「トロカデロ宮のオルガン演奏会についてマラルメの記した文章を要約するなら、『闇の煌めき』であり、存在の基部を揺り動かす宇宙的感覚の《醸成装置》なのであり、しかも演奏者はほとんど見えず、鳴り響くこの《装置》によって群衆は合一感を得るのだ」(p.61)という記述から、これまで何度もこの「日誌」のなかで言及してきた、「音」の政治性に、ふたたび三度と、意識を向けられる。

 ゴシック建築という「森」。「クローデルの解釈によれば、神殿は本来《森》である」(p.64)。この指摘、ゴシック様式の教会堂とは「森」であるということは、かなり広く知られる指摘だと思われるが、ぼく自身もこのことについて考えてみたい。1月11日に明治大学で行われた酒井健さんの特別講義「中世ロマネスク美術と異文化理解」でも、表題のとおりロマネスク建築についての講義ではあったが、ロマネスクからゴシックへと広がる「自然」の表現が中心的な主題として論じられていたのを強くおぼえている。そこではロマネスク様式における回廊の「ねじれ柱」と「ぶどうの蔓」が印象的な例として提示されていた。それからぼくは、回廊空間の閉鎖性と「開かれ」、あるいは「公共性」について考えてみたのだった。

 「ところでクローデルは、神殿を森に喩えるのは異教徒もしていることだとして、キリスト教会の教会堂の特長は、それが単に神秘を閉ざす聖なる部屋を納める空間であるばかりではなく、神ご自身が人間と対等に出会われる場であり、交流の十字路つまり《市[マルシェ]》なのだという、大胆な命題を説く。」 p.81
 そこから渡邊は、「王権と町民階級の権利主張の絶えざる確執の場」であったというパリの姿を浮かび上がらせる。すなわち、「クローデルにならって《交流の十字路》へ、いや《権力装置の十字路》へと」議論は進む。そして第3章、「権力装置の十字路」へ。

 しかしそのまえに、この日誌は「ノートル=ダム大聖堂」に惹き寄せられて、迂回へ、放蕩へと、旅立つことにしよう。

 ところでいま、先ほどその名を書きつけた「ノートル=ダム大聖堂」が火災にあったのがちょうど1年前の今日だったことを知る。そうかあれから1年も経ったのか。ここ最近の混乱によって、ぼくの記憶も感傷も、どこか途方もなく塗りつぶされてしまった気がする。前述した「奇妙な日常性」の重要さも、ひとつはそこに繋がってくるだが、「革命」や「戦争」や「緊急事態」に、ぼくらの日常性、日々の「生」をけっして塗りつぶしてしまわないこと。それはあらゆる瞬間に、感性や思考のための「余白」や「陥没」を重視する態度(ぼくがなによりも大事にしたいひとつだ)にもつながっていく。

 ノートル=ダム大聖堂の写真をみたとき思い出したのは、土居義岳『建築の聖なるもの 宗教と近代建築の精神史』(東京大学出版会)が部屋に積まれているということだった。そこでつい惹かれてページをめくる。
 まずはじめに、「はじめに パリのノートル=ダム」を読む。「2019年4月15日、そこで火災があった」(p.1)。そうか、出火の時刻は現地時間の19時前、すると日本では16日になっている、という気づき。
 興味深いのは、「ノートル=ダム」をめぐる「意味の錯綜」である。12世紀後半の司教モリス・ド・シュリによるカテドラルの建設、ゴシック様式の登場、そしてフランス革命による「国有化」(つまり「厳密にいえば国有化された時点で教会施設ではなくなって」おり、「むしろそれは国が所有し管理する多目的施設のようなもの」になっているということ)、そしてノートル=ダムで戴冠したナポレオンが教皇ピウス7世と取り交わした「コンコルダ」。それらの込み入った歴史的経緯が「カテドラルをめぐる文学や建築の枠組みとなった」(p.1)という。そこで、このたび炎上したカテドラルは、「ノートル=ダム」は、いったいどのような意味を与えられた「モニュメント」なのか。
 モニュメントとしてのノートル=ダムにとって、重要だったのは、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』と、同時代の建築家ウジェヌ・ヴィオレ=ル=デュクによる修復であった。そこで、「近代」的な意味が付与されたのだ。それは政治的には「共和国」的な理念であり、そこでノートル=ダムの教会建築は「脱宗教化」させられることになる。
 だが、筆者がここで注目するのは、ノートル=ダムの改修=新しい意味の付与が、ちょうど「過渡期」に行われたということなのである。それは建築様式的にノートル=ダムのカテドラルが、ゴシックの完成する直前の様式であるというばかりではない。ナポレオンや「ユゴーやヴィオレ=ル=デュクがその文化的価値を構築したのは、1905年の政教分離法以前であったという事実」は、ノートル=ダムのカテドラルが「近代のモニュメントだとしても、国家と教会が妥協していた19世紀の産物なのであった」ということを示している(p.4)。そしてこの「過渡期的な性格」が、本書の——副題にあるように——中心的な主題となる、「聖なるもの」という20世紀的な概念を開いてゆく。
 本書のなかでは、20世紀において、脱宗教化された近代的な学問としての「宗教学」によって——そして「在野」ではジョルジュ・バタイユによって——問われるようになった、「聖なるもの」とは何かという主題を、哲学や宗教学や社会学から「20世紀初頭の建築の流れ」のなかで再考しようとする。そこで建築には、「聖なるもの」の探求が内在しているのだ。そのような議論をつうじて筆者は、本書で近代建築史を、「俗」的なものをめぐる唯物論的な記述だけではなく、「聖」なるものをめぐる「精神史」として描こうとこころざす。

 ところで、ぼくにとって未見の語彙として「宗教的アプリオリ」という言葉に出会った。どうやら20世紀初頭のドイツで、多くの神学者や哲学者を惹きつけ議論を呼んだ概念らしい。しかし一体どのような概念なのか、よくわからない。Google検索に放り込んでもあまり明瞭な答えは返ってこない。そこで見つけた論文を手当り次第にながめてみよう。そこで見つけた、藁科智恵「R・オットーにおける『宗教的アプリオリ』理解——トレルチとの対比において——」(『宗教研究』89巻1輯)によれば、まず「宗教的アプリオリという術語は、現在、エルンスト・トレルチと〔ルドルフ・〕オットーの概念規定による2つの説明が与えられている」という。そしてトレルチによる概念規定は「カントとのアプリオリ概念との類比において特徴付けられたもの」である。なるほど、カントなのか…と呟いてみせても、ぼくには「カントのアプリオリ概念」もよく分からない。もちろん「アプリオリ」の意味くらいはわかるけどさ。
 そこで手元にある、冨田恭彦『カント入門講義 超越論的観念論のロジック』を開いてみる。索引はないので目次をながめると、第3章の小見出しに「アプリオリとアポステリオリ」という並びをみつける。そこにカントの『純粋理性批判』(第1版)からつぎのように抜粋されているのを読むことになる。「経験はなるほどわれわれに何が存在するかを語るが、それが必然的にそのようでなければならず他のようであってはならないということは語らない。まさにそのために、経験はまた真の普遍性をわれわれに与えるということはなく、この種の認識を強く求める理性は、経験によって満足を得るよりも、むしろ不満を持つ。ところで、同時に内的必然性という性格をも有するそうした普遍的認識は、経験とは関わりなく、それ自身で明晰で確実でなければならない。したがってわれわれはそれをアプリオリな認識と呼ぶ」(『カント入門講義』p.134より孫引き)。なるほどきわめて明快な記述である、と解説書から原典の引用をながめて満足してしまうのもどうかと思うのだが、よく理解がいった。「必然性」と「普遍性」をもつ認識、あるいはここでは概念を「アプリオリ」と呼ぶ。そこで、宗教的なもの——聖なるもの——を必然的・普遍的なものとみなした場合に「宗教的アプリオリ」という概念が立ち上がることになるのだろうと、とりあえず納得しておいた。

 この見立てを確認するためには、先ほどインターネット上に見つけたいくつかの神学の論文をながめてみれば良いだろう。オンラインで読むことのできた、ヨゼフ・フロマートカの『神学入門 プロテスタント神学の転換点』(新教出版社)も——これがどのような位置づけなのかは知らないが——興味深そうなので読んでみる(フロマートカには昔から興味がある)。そしてカントについても、新カント派についても、勉強を続けていこう。さらには(今日の)本題に立ち返って『建築の聖なるもの』を、そして『パリ感覚』を読み進めていかなければならない。バタイユについても、読む本や考えることが多く残っている。
 さてとりあえずは、野田又夫『西洋哲学史 ルネサンスから現代まで』(ちくま学芸文庫)のドイツ観念論に関わる部分を拾い読みしながら布団に吸い込まれることに決めた。

 ちなみに今日は、大学の学費や授業開始日などをめぐってTwitterのリプライやDMで盛んに議論する機会があり、「大学」や「知」の制度の歴史に関するより専門的な書籍も——ここには挙げていないものを——複数冊読んでいる(ちなみに、渡邊守章の『パリ感覚』も、今日はたどり着かなかった第3章では「コレージュ・ド・フランス」が取り上げられて大学論が展開されている)。とりわけ中世の大学は面白いと感じる。また、そこから近代的な大学が、どのように生まれてきたか——その歴史はかならずしも連続的ではない——ということにも、ぼくの関心は強く向けられている。これについてはいつかまとめて文章を書くつもりだが、「大学」という「場」をいかに擁護していくか、さらには構想していくかということは、いまぼくのなかで最も中心的な関心のひとつとしてあらわれている。

お金があると本を買えます。