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「百学会」という試み——「知」の大がかりな連帯のために

 1年くらいまえ、「百学会」という研究に関心のある学部生の集まりを立ち上げた。といってもなにか組織をつくったわけではない。ただの「集まり」だ。以前住んでいた寮のお向かいさんと、それぞれの友人をあつめて、半年に一度くらいの頻度で、ひたすら喋るだけの食事会をおこなうようになった。とにかく集まって、食事しながら、それぞれの関心あることをひたすら喋る。それだけだ。

 テーマもプランもなにもない。気の向いたときに呼びかけ、集まって、「最近どうですか?」と社交辞令めいて問いかけてみれば、全員、このまえ読んだ本のことだとか、さっき興味をそそられていたことだとか、どこまでも話すネタには困らない。
 むしろ話したくて話したくて仕方がない。それなのに、勉強や読書といった話題は、「日常会話」のなかでは敬遠されがち。マジメだとか硬いだとか、なんとかかんとか理由をつけられて、喋り相手はいなくなる。ごく稀に一人くらいは見つかって、これ幸いとばかり勢いよく話し込んでしまったときには、二度とまわりの会話には戻れない。場のなかで浮いてしまう——そんなことはどうでもよろしいのだが、この感覚、この解放感をいちど味わってしまうと、すぐには元に戻れなくなるのが困るところ。あるいはどうにも気を遣ってしまう。だれに咎められるわけでもないのに、まわりに気遣って好きなことを好きなように喋っていることのできない自分が嫌いだ。
 そこで、好きなことを好きなように、好きなだけ喋っていることが許される場所をつくろうと決めた。学問や勉強や読書についての会話が「合法化」されている空間。そこでひたすら気のあう人たちと喋っていられたら、なんて素晴らしいことだろう。

 百学会の特徴はいくつかある。もっとも、なにかルールを明示しているわけでもなく、きわめてゆるく、というよりもめっちゃテキトウに運営しているのだけど、うまい具合に、ちょうどいい塩梅の集まりに落ち着いている。
 重要なのは、まず、「全員の顔が見える大きさ」だということだ。Zoomだとひとつの画面のなかに収まってしまう、10人弱のあつまり。直接会って喋るときには、ひとつのテーブルを囲むことができる。それによって連帯感などを醸成するつもりはなく、むしろいつでも参加したり参加しなかったりすれば良い「ゆるさ」を大事にしていきたいとは強く思っているのだが、同時に、お互いの「顔が見える」距離に抑えておきたいとも意識している。
 そうすることで互いに尊重しあう雰囲気が生まれる。より端的には、だれか一人が他の人たちに「マウントを取る」ということがなくなる。口先の勝負で、ことばの強さだとか硬さとかで、自分のほうが詳しいのだ喋れるのだ頭が良いのだと、比較し牽制しあう身ぶりが、ぼくは大嫌いだ。それはどこまでも空中戦でしかなく、地に足つけた会話ができなくなる。ひたすらレトリカルな勝負ばかりして、どうして「知」的に実りある対話が生まれようか。

 じつのところ、「マウントの取り合いにしない」という運営方針には少しだけ強く思い入れがあって、そのために、「百学会」のもうひとつの特徴がうまく合致している。それは、「さまざまな分野に関心のある人たちの集まり」だということ。
 専攻分野や関心の広がりなどはかなり多様でありながら、しかし、全員の興味が思いがけず一致する瞬間がある。それは共通の「知識」を持ち合わせているというより、むしろ「態度」や「感性」を共有しているのだと表現するほうがしっくりくるのだけど、皆がひとつの「場」を共有しているという感覚がたしかにある。対話のための共有基盤。ひとりの話に全員が耳を傾け、そこから自分の関心やフィールドに引き寄せて、こんな事例がある、こうやって考えることもできると話しはじめる。
 そうして、複数の異なる「知」のあいだに対話が立ち上がってゆく瞬間。それが「百学会」に摘みとられるべき果実なのだ。

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〔写真〕参加者が、みな相当の読書好きということもあり、
面白い本や各分野の基礎文献を紹介しあって、積ん読を増やしてばかり
(写真は、紹介した本を積みなおす余裕もなく喋りつづけた結果)


 それぞれ違った関心や思考をもつ人たちが、ひとつの場にあつまって、好きなことを好きなように、ひたすら喋りつづけることができる。ひとりが話しはじめると、まわりはその語りに耳を傾け、だれかが引き受け、視点を付け加え、議論を広げ、あたらしい知見を提示したり、良さそうな本を紹介したりする。すでにお互いを、それぞれの分野で——ときには研究者を職業としてしまっても良いかもしれないと思うほどには——真剣に勉強している人だと認めているから、無駄にマウントを取ろうとして不愉快に高圧的な言動をすることもない。ひたすら居心地よく、しかしそれでいて途方もなく刺激的な、「知」に充ち満ちた場。集まるたびに視野を開かれ、勇気をもらう。そうして半年ほど、各々自分の関心のおもむくままに突き進んだりお休みしたり放蕩したりして、また気の向いた頃合いに集まってくる。

 そんな「知」のゆるやかな連帯と「場」をつくりたいと思いつづけていたら、運よくひとつ、「百学会」というかたちで実現した。とはいえ、これは個人的な集まりで、ちょっとヘンなかたちだけど、友人同士の食事会に過ぎないから、もっと大がかりで力強い「組織」や「運動」を立ち上げてゆくことも必要だろうか。そのための戦略や構想は、たちまちすぐには何も思いついていないものの、これから考えていくべきひとつとして、つねにぼくの頭の片隅に寝っ転がっている。

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 ここで紹介した「百学会」については、以前ぼくの書いた自己紹介的なnote、「大学で何をやっているの?と訊かれたら、『苛酷さ』を引き受けているのだとお答えするほかありません。」のなかでも取り上げています。


お金があると本を買えます。