引きこもり日誌・25日目

2020年5月2日(土)

 机が届いた。部屋中に散らばった積ん読や書類は昨夜(あるいは早朝)のうちに片付けておいたので、組み立てのスペースは確保されている。「組み立て」とは言っても、箱を開けて、脚を取り付けるだけの作業だ。数十分というまでもなく、すぐに完成してしまう。まだ椅子が届かないので、ベッドサイドに腰掛けて使うことにしよう。

 昼過ぎ、雑誌『BRUTUS』の最新号をもとめて高田馬場の芳林堂書店へ。特集「居住空間学2020」。そのなかに、橋本麻里さんと山本貴光さんの暮らしている〈森の図書館〉が取り上げられていると聞いて。「壁の内側に本棚という被膜があって、そのレイヤーが私たちを外界からゆるやかに守り、あらゆる時空間へと導いてくれる。」(p.31) そこで「積ん読」は、「被膜」というよりは「断崖絶壁」に似ている。ぼくたちはそれを目のまえにして、もはや呆然とするほかのないときもある。あるいはその崖は、とつぜん崩れ落ちることもある。だが、それもそれで面白い。崖にかこまれ、壁に包囲された空間も、ときにわたしたちを「守り」、どこかへ「導いてくれる」こともあるだろう。そんなことをとりとめなく考える。しかしそれにしても、〈森の図書館〉の書架と閲覧室は魅力的だ。

 いつも日曜日にやっているオンラインケーキ会ができないというので、「夜のお喋り会」に急遽変更する。わがままに付き合ってもらう。「距離」について話し込む。あえて遠くに、相手から見えないところに身を置いておく。その恥ずかしさなのか慎ましさなのかそれともまったく異なった表現をされるべきなのかもしれない感覚を、たしかにぼくも持ってはいるだろう。けれども、ぼくは相手に認知されたいと思う。あるいは望まずとも「されてしまう」。けれども、はたして、見えるからといって見えているのか。知られているからといって知られているのか。ぼくには信じきれないところもある。話しているけど話せていない。見せているけど隠している。分かっているけど分かっていない。それは相反しているようにみえて、じつは、同時に起こりうることなのだ。むしろ、ぼくたちはいつも、見えているけど見えておらず、知っているけど知っておらず、話しているけど話していない。その「間」を落ち着きなくさまよっている。それにしても、今日のお喋りはよくぷちぷち切れた。それでもなお、ぼくたちは喋りつづけていた。

お金があると本を買えます。