見出し画像

引きこもり日誌・10日目

2020年4月17日(金)

 本屋を訪れるということにさえ、べつに禁じられているわけでもないのに、どこか躊躇というのか「やましさ」をおぼえてしまう。外に出ることやひとに会うことの加害性がいびつなまでに強調されなければならない状況下で、都合よく感性を麻痺させてゆくことなしに、わたしたちは社会を、社会的なありかたを、保ちつづけてゆくことができるのだろうか。
 たとえば、わたしが取りに行くことも、あなたに運んでもらうことも、おそらく感染可能性はあまり変わらないだろうのに(いずれにせよ身体的な接近や接触は避けられないだろう)、前者より後者のほうが「抵抗感」が減じられてしまうというこの感覚。つまりみずからが直接的に加害行為に加わっていないのだからと無邪気にいられる感性のありかたが、より一層強化されてあらわれてくるのではないか。もちろん、それはいまに始まった現象でもなく、むしろ古典的な課題にほかならない。
 そうなのだ——まさしく、そうであることを自覚すること。いまわたしたちが直面することになる課題は、いささかも「新しい」ものではないということを意識しておこう。たしかにウイルスそのものは「新型」なのだろうが、それによって立ち上げられる言説や思想、人びとの身ぶりは、おそらくほとんど「新型」ではあるまい。従来と変わらない加害性への怯え。そこに恐れるべき対象の「表象」が「新しいウイルス」として新しくひとつ追加されたというだけのことだ。その怯えのあらわれや表象のはたらきは、決して特別に新しいものではないはずだ。
 ところですこし話を戻しておくと、都合よく感性を麻痺させてゆく過程とは、生きるための加害性をどこまで引き受けるかという生々しいまでの葛藤と闘争のあらわれる場にほかならない。それを「あらわれ」させることも、または表象などの諸技術にくるんでしまうことも、きっと同様に、社会にはもとめられている。

 ところで、このようなことを考えていたのは、池袋にあるさる大型書店に本を買いに行ってきたからだった。大学制度について書かれた基礎的な文献をいくつか買い込む。大学について、授業のありかたについて、学費について、さまざまな言説や議論がTwitterには飛び交っているのだが、実際のところどうなのか。それをあなたは分かっていますか。まずは現実やその背景にあるものを冷静に捉えること。戦略的な大胆さはその先に立ち上がってくるものではないのだろうかという「もどかしさ」を、時折おぼえて仕方ない。

お金があると本を買えます。