引きこもり日誌・27日目

2020年5月4日(月)

 気がつけば来週から授業がはじまるので、オンライン授業をどのように行うかというメールが日々舞い込んでくる。今日は朝から外国語講読の先生とWaseda Moodleの双方向ライブ配信機能(Collaborate)のリハーサルをしていた。そこでまた気がつくのだが、今学期はすこし気合いを入れて「授業のための勉強」をしなければマズイのではないか。というのは気合いを入れて履修を組んだので、かなりハードな構成になっている。
 少人数の演習は——いろいろ制度的な名称がついているが——合計6つ。うち2つはフランス語の文献を読み、期待のひとつは毎週レポートの提出がある。それに加えてラテン語も始める。6月からは文化人類学の英語文献を読む読書会がはじまる。そういえばフーコーの『監獄の誕生』とアーレントの『全体主義の起源』も読まないといけない。なんとなんと、大変そうだ。しかし、これくらいハードでなければ、大学の授業なんて退屈すぎて受けてられないだろう。
 そもそもこれらは授業などによって、自分で決めたとはいえ「制度的に」求められている勉強にすぎない。それだけをやっておけばいいというものではないし、大学生の勉強というのは誰かにやっておけと命じられたり、これだけをやっておけばいいなんて保証されてやるようなものではないはずだ。やりたいと思ったことをやりたいだけ勉強していれば良いのであって、そこでぼくのやりたい勉強は山のように積まれている。
 さあどうやってこの山に挑戦するか。どういうぐあいにこれからの勉強を組み立てていこうか。そう考えをめぐらせるとき、心が踊りだすような感覚をおぼえるのだが、往々にして、思考は踊れど進まない。

 今日の発見:明治から昭和にかけての大学教育(高等教育)で少なくない役割をはたしていた「講義録」という通信教育制度。

 放送大学の放送教育開発センターで、天野郁夫氏らによる「近代化過程における遠隔教育の初期的形態に関する研究」というプロジェクトが行われていて、その報告書が機関リポジトリに公開されているのだが、こちらも大変興味深そうだ。まさしく「遠隔教育」が必要とされている状況なのだから。


お金があると本を買えます。