引きこもり日誌・11日目

2020年4月18日(土)

 二度寝して起きたら10時5分で、今日のオンライン読書会(積読消化会)は5分前にはじまっていた。あわててベッドのそばのMacBook Proを開き(ぼくはmacOSのほうがWindowsよりはるかに操作性にすぐれていると思う)、Discordを立ち上げる。おしならぶ英文字が日本の敗退を物語っているが、それはさておき音声が入らない。どうしたものか。チャットを見ると「20分から25分くらいお待ちください」と書いている。なるほどそうか誰も喋っていないのか。映像は入れるのだろうか。そもそもこれはチャットと通話が分かれているのか。なるほど、なるほど、とつぶやきながら、読書会のなかで紹介する本はまだ決めきれていない。お題は「最近読んだ本」。

 最近読んだ本が多すぎる。どこからが「最近」なのか。そもそも「読む」ということさえ最近わからなくなっていきている——しかしそれを理解できていたことなんてあったのか——ぼくは、もはや呆然と、部屋に積み上がった(本棚をまだ買っていないので、ぼくの部屋には1000冊ちょっとが文字通り「積み上がった」状態である)本たちをながめてみる。最近読んだ本をみつけるのは簡単だ。ベッドのそばにあるほど新しい。
 ぼくは一冊の本を最初から最後まで一気に読み通すということが少なく、たいてい途中まで読んだら何かを思い出して、そういえばあの本にこんなことがあった、それはそちらの文献にあたったほうがいいなと頭のなかでひとりごちながら「放蕩」してしまう。そのなかで、併せ読んでいくための本が手元に積み上がっていくのだ。そうして、ベッドのそば——ぼくはお布団のなかで生きているので——に、最近手に取った本が積み上がることになる。その山をみれば、直近の問題意識や関心の広がりが浮かび上がってくる。その意味において積読は地層だ。そこには、ぼくの関心が時間を追って記録されている。

 ところでオンラインで読書会なり雑談会をするとき、オフラインといちばん大きく異なるのは、会話の空間構造だ。対面で喋っているとき、5人より多く集まっていると、たいてい会話は複数に分かれることになる。積読消化会の場合、「脱線すること」がひとつ大きな特色としてあって、なにかひとつの本やテーマが取り上げると、そこから連想した別な話題にあれこれ議論が広がっていって、「あれ」について気になる人たちと「これ」について気になる人たちで分岐して、複数の会話空間がひとつのテーブルをかこんで別に立ち上がっていく。
 この会話の「枝分かれ」は、それがオフラインであれオンラインであれ変わらない。Discordで喋っていても、みんな自分の関心にしたがって喋りはじめ、当初のお題から遠ざかっていきがちだ。だが、そこで対面で話すときとオンラインで話すときに決定的に異なるのが、ネット上では、いちど枝分かれした会話空間は「完全に切り離されてしまう」ということなのである。
 どういうことか。物理的には同じ空間のなかで、ひとつのテーブルをかこみ、複数のグループにわかれて喋っているとき、「会話」はそれぞれのグループごとのなかで完結している。だが、「音声」は、となりのグループからも漏れ聞こえてくるだろう。それにすぐ隣にいるのだから、会話を聴かずとも、なんとなく様子は分かっている。
 しかしながら、たとえばDiscordであれば「トークチャンネル」を複数立てることで、それぞれのチャンネルで別なトークを行うことが手早くできるのだが、そこでチャンネルをこえて声が聞こえて「しまう」ということはない。グループだけでなく空間さえ別に立ち上がることになるから、お互いになにを喋っているのか、どんな状況なのか、まったくわからないのだ。そのため、いちど分かれてしまった会話は二度と戻ることなく、むしろ隔たりが大きくなるだけである。
 空間を共有すること。皆がおなじところにいて、たがいに何を喋っているのか、どのような状況にあるかということを共に認識しつつ、しかしそれぞれの関心のおもむくままに喋っている状況を、いったいどうすれば実現できるか。今日Discordで積読消化会を行いながらぼくが考えていたのは、そのような技術的問題だった。

 解決方法は、すぐにひとつ思いついた。まず全員がひとつのトークチャンネルに入っておく。これで皆、あらゆる参加者の発言をたがいに聴くことができる。そして、メインのチャットチャンネルもひとつ作っておき、ここに、紹介したい本の書誌情報を載せたり、全体への連絡事項などを書く。そのうえでもうひとつチャット用のチャンネルをつくり、それを雑談用に使うのだ。そこに、誰かが喋っているときに思いついたことや先の会話の続きなどを乱雑に書きこんでゆく。
 そのときぼくの頭には、ニコニコ動画に流れるコメントのメタ的な批評性や雑然さが思い浮んでいた。これは同様なことを東浩紀が指摘しているようにも思われるが、ニコニコ動画のコメントこそ、デジタル的な時空を共有している、まったく異なる複数の言説の連なりが多元的に立ち上がる「場」だと感じられる。

 そこでふと大学の授業がオンライン化することを思いだす。そのためにどのようなシステムを用い、どのような空間をつくりだすか、ということをめぐって、多くの大学教員がSNS上に意見を出しあっている。各大学のLMSやZoomなどのWeb会議システム、YouTubeやツイキャスなどの動画配信サービス、あるいはポッドキャストなど音声データ、はたまたPDFなど書類データとして配布するだけのほうが良いのではないかと、さまざまな意見がある。
 その多様性にあらわれているのは、オンラインサービスの数の多さや、大学教員たちの創意工夫の豊かさ、だけではない。むしろそこには、「大学の授業とはなにか」ということをめぐる認識や構想の複数性があきらかにあらわれている。あるいは「教室とはどのような空間であるか」ということや、根源的には「大学とは何か」ということについて、きわめて見解が分かれているという事実を物語っている。
 それは当然のことだし健全なことだ。しかしいずれにせよ重要なのは、オンラインに移行すること、インターネット上のシステムで「代替」することの「限界」に気がつくことだ。あるいは発想を根底から変えなければならないということに気がつくべきだろう。従来の対面式授業のありかたが前提にあって、それをオンラインに移行させようとする試みは、どこまでも「模倣」でしかなく、それは不十分な「再現」にすぎない。いかに接近させようと、あくまで「近似」にすぎず、どこまでもなにかが欠けている。そもそも「空間」を「平面」に落とし込んでいるのだから、置かれている条件も、もちいることのできる技術も戦略も、まったく異なっているはずだというのが真っ当な感覚だ。それでもなお、やろうという/やるしかないのだから、それは構想力の勝負というに尽きているが、負けたらオシマイというゲームでもないわけで、そこで取りうる選択肢はじつのところきわめて限られると考えるのが当然ではないか。
 これだけのことを完璧にやると決めて、それだけは徹底的に実現する。欲は出さない。もちろん、創意工夫も不要とは言わない。思いついたことは積極的に試せばいいし、新しいアイデアや技術も導入して見たらいい。だがそれは「冗長性」のためにある、あくまで補足的なものだ。できることが多ければ多いほうがいいのは当たり前だが、欠かせられない部分を疎かにして、優先度の低いものばかり増やしていっても自己満足にすぎない。なによりも重要なのは何か。これを欠かすと大学の授業として成立しないというものは何か。それを見抜くことができれば、あとはきわめて単純な技術的課題にすぎない、はずなのだが、そんな簡単な話ではないというのは、もしかして、大学=高等教育をめぐる戦略や思想のレベルから問い直さなければならないから、なんじゃないかな。

お金があると本を買えます。