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「開く」ことの始まりにむけて

・初出:ZINE『展開』創刊号「特集:本屋と平面」(早稲田大学生協戸山店発行、2020年4月)
・執筆者:植田将暉

 本を読むというのは文字を読むことではない。むしろ「文字」など紙の書物においてはたちまち忘れ去られてしまう些末な要素にすぎないと暴力的に断言してしまってもよい。わたしたちは読書しているとき、これまでに読んだすべてのページのあらゆる文字列を正確に思い出すことはないし、その時点でどれだけの文字数を読んできたのかも知らない。ひたすら目を上下や左右に動かし、ならんだ文字列を追いかけていながら、じつのところ文字そのものにはどこまでも無頓着でありつづけている。それは倒錯的にみえて、じつのところ真っ当な態度なのだ。一冊の本に数多とつめこまれた文字たちのざわめきにひとつひとつ耳を傾けていたのでは永久に読み切ることなどできやしない。だからわたしたちはページをめくるたびに文字を忘れてゆく。

 しかしたしかに読んでいた。あの感覚を、たとえばページをめくる指さきの感触や次々に開かれてきた視覚を、わたしはたしかにおぼえている。紙ずれの音やインクのにおい、あるいは書きこんだ鉛筆の芯のやわらかさや折り曲げたページの紙のかたさ。読書とは、ただひたすら文字列をなぞってゆくという目の平行移動ではなく、むしろあらゆる器官のはたらきを駆りたてる、全身体的な「運動」なのだ。その記憶は、「本を読む」という行為が、印刷された紙という「平面」にまどろんでいる文字たちを——テクストを——製本された書物という立体へ、そしてページをめくる指さきに代表される「身体」によって「空間」へと連れだしてみせる身ぶりにほかならないということを物語っている。わたしたちは、ページをめくり、文字を目でなぞり、またページをめくってゆくという反復的な身体操作のなかで、しかし反復をこえた運動として、一度しかありえない「事件」として、紙という平面から書物という空間へと、次元をこえて、読書体験なるものをたちあげる。そのとほうもなく刺激的な広がりに、思いきり身をゆだねてごらんなさい。

 それは過剰な体験である。本というのは印刷された文字のならんでいる紙束にすぎないのだから、ひたすら文字列に目線を沿わせてゆけば、きっと読み切ることができる。そう約束されているはずなのに、どうして「文字」の外に出なければならないのか。作者がそこに書きつけていること、その絶対的な権威に忠実であることが読者に許された唯一の態度ではないのか。あるいは、本とはけっして汚してはならないものだ。ひとつの作品として完結している一冊の書物はそのままに読みつがれてゆかねばならない。しかしそのような書物観は、歴史的にも経験的にも裏切られるだろう。表紙は華麗に付け替えられる。古典は時代をこえて誤記され改変されつづけてきた。ページは折り曲げられ、文字列には線が引かれ、余白は書き込まれ、書物は「過剰」な何かをつねに抱えこみながら読まれてきた。たとえば「誤読」されてしまうこと。それもまた、「読む」という行為にとって過剰なものだ。しかし、それはむしろ「ゆたかさ」を、テクストの「開かれ」の強度をあらわしている。だからといってデタラメな読み解きを推奨するわけでもない。そこに書かれていることを虚心坦懐に読んでいくのが基本である。と同時に、文字を丹念に読み進めていくなかで「文字」の地平をふいに踏みこえてしまう瞬間が、たしかに認められるということだ。過剰な細部に触れてしまう。黒々とした世界に、とつぜん華やかな視界が開かれる。それを「テクスト的な体験」と呼ぼう。それは呆然とするしかない「眩暈」として突きつけられるものかもしれないが、それこそ「批評」と呼ばれるあの遭遇体験にほかならない。

 とにもかくにも文字を読んでいく。そのときテクストは、それが立体的に綴じられた紙の書物は、几帳面に文字のならんだ平面には収まりのつかない「空間」として展開される。ページをめくる。その身ぶりこそ、いまテクストを読むことの可能性をひらいてゆく。

戸山「展開」(最終稿)

〔オンライン公開にあたっての補記〕
 これは今年4月に、キャンパスの閉鎖と授業のオンライン化にともなって大学生協による教科書の郵送サービスがはじまった際に、早稲田大学生協の戸山店(文化構想学部・文学部の教科書配送を担当)から発行されたZINE、『展開』創刊号「特集:本屋と平面」に掲載されたテクストである。
 このZINEは、注文を受けた教科書の配送時に、同封して送付するかたちで配布された。したがって、これは、きわめて限定的に読まれることになったテクストである。とはいえ、このテクストを書いてしまった主体としては、そこに読まれるだろうものは決して「限定的」な主題ではないはずだと確信している。そこで今回、ぼくのnoteにおいて、公開することにした。
 あるいはここでの議論は、昨日公開された『早稲田ウィークリー』のぼくの記事「オンライン授業で消えた大学の「余白」」にも深くかかわってくると考えている。そこでキャンパス的な「空間」論として立ち上げてみた「余白」の議論を、とりわけ「紙の書物」のかたちのテクストを「読む」という身ぶりの空間性にどう交差させていくか、ということだ。それは今後のぼく自身への課題としておきたい。
 最後に、今回のテクストの掲載にあたって、戸山店ZINE『展開』の制作者であるM氏の創造力や実現力に、もはや「感嘆」してしまったことを記し、補記を終える。


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