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死する人が選べること

母が死んでから9ヶ月が過ぎた。

母は肺がんの末期だった。最後の3週間は病院にいた。途中から緩和ケアというものに切り替わったが、どこかでそれは便宜上そのように取り扱っているだけだと思っていた。けれど、突然に歩けなくなって入院してから3週間後の2月25日に母は生涯を終えた。75歳になってすぐだった。現代の平均寿命からすれば短いが、70歳を過ぎていると考えればそれなりに人生を謳歌したと言えるのかもしれない。そのあたりはどうにもよくわからない。

母の死は強烈な力を持っていた。父と僕には、少なくとも。僕は父とあまり仲が良くなかった。母がその間をつなぐ唯一の存在だった。僕の想定では、先に死ぬべきなのは父だった。でも現実に母が先に死んだ。僕と父を残して。

母の死の23日前に、僕は結婚した。妻を母と父に紹介して2週間経たずに母は入院し、そしてそこから3週間で命を終えた。
母の死後から葬儀までの1週間のあいだで、僕は、母の知人から何度となく言われた。「お母さんが亡くなったのは残念でしたが、最後にお嫁さんを観ることが出来てよかったですね」と。いやぁ僕もだいぶ感情のコントロールができるようになったもので、その言葉に対して「そうですね」とリアクションを返し続ける程度ではいられたものの、"ロジカルでエモーショナルな自分"は、そういった言葉に対して、ずっと抵抗感を感じ続けていた。だってそうだろう。母は別にそのタイミングで死のうと思っていたわけではないのだから。いやむしろ、もう少し元気に生きていられたら、僕と妻と、そして母も交えて、会話することだってできたはずなのだから。
勝手に他者の感情を、自分の都合で想像して押し付ける言葉の不快さを、たぶん母が亡くなってからの頃にぼくはたくさん感じ取った。だからこそ今強く思うのは、決して自分の都合で想像して他人に言葉を押し付けてはならないということだ。何か語るときは必ず「これは私の主観なので、どのように受け取られるか分からないので、無意味だと思うことについては聞き流していただきたい」というような枕詞をつける。あるいはそれをつけることすらはばかられるなら、そもそも相手にとって何か注文のように聞こえる言葉は吐かない。そういう精神性を持つようになったということだ。それが徹底してできるようになったという点では、あの経験は無意味ではないのかもしれないが。

話を戻そう。といってもそんな話すこともないのだけれど。
僕は、先程、母は決してそのタイミングで死ぬと決めていたわけではないのに、と書いた。いまでもそう思っている。と、その一方で、どこか母は自分の死のタイミングを調整していたような気もしている。矛盾するようで、でも整合しているような、そんな気持ちがある。

もし仮に、母があのタイミングで死ぬことなく、一旦少し回復していたとしよう。しかし、身体は末期がんに冒されていることに変わりはない。何かあれば身体状況はすぐに危険に向かい、病院に運ばれるということになっただろう。となると、僕と父はまた、混乱と憔悴の中に陥るだろう。
それは果たして母の望むところだったのかというと、決してそうではあるまい。特にぼくは、結婚してすぐだったのだ(誤解なきように明言しておくと、僕は母の病状とはまったく無関係に、妻と結婚することにしたのだ)。
そこで自分の身体状況の変転によって、僕と父をそこに付き合わせることになるくらいなら、いっそそれの決して起こることのない終端、すなわち死に、自らを持っていくことのほうが望ましい、ということは、充分にありえるような気がしているのだ。それくらいに母は、こだわりのない人だった。少なくとも、自分の生命の限界を受け入れていた。おそらくはずっと昔から。その上で、人生を満喫していた。いや、だからこそ、なのかもしれない。人生は終わるときには終わる。それが分かっていたから今できること、楽しめること、そして誰かの力になれることに注力することに迷いがなかったのかもしれない。

そう、だから、ぼくは母が最後に、動かない身体という状況の中で選べる道として、自らの生命の終わりを選んだのではないか、とそんなことを思うようになったのだ。これは決して「生命力が尽きたから命が終わった」ということではない。あくまで、タイミングを選んで自らの人生にエンドロールを流したのだと。
わかりやすくいうなら、少なくとも僕に対しては「私のことはいいから、自分と妻の人生を楽しく生きなさい」という文字通りに命をかけたメッセージを送ってくれたのではないか、と。

もちろんここに述べていることにはなんの科学的根拠もない。というよりは、僕が自らを楽にするために、こうであってほしいという解釈を述べているに過ぎない。
だがしかし、たかだか死から数ヶ月でそれなりの強度で、これが語れるようになっている時点で、プロセスはどうあれ、結果的に僕の受容は進んだということが言える。だからやはり、母の生き方と死に方は、僕を助けてくれるものだったと思うのである。

とはいえ、僕はそう思っているのだけれど、父は多分そうではないと思う。おそらく父は、自分のほうが妻よりも先に死ぬべきだし、死ぬものだと予想していたはずだから。年齢でいえば2つほどしか変わらないけれど、母ががんが見つかるまでの健康状態で言えば、父のほうが悪かった。周りの人間も、健康で活動的な妻と、不健康で社交的とは言えない夫だと、きっと両親を見ていただろう。僕もそうだった。
しかし現実には、母が先に死んだ。父を残して。

僕は、自分自身が死ぬことはどうでもいいと思っている。そんなものは別に死ぬときには死ぬ。それは構わない。
ただし、妻が死ぬことには耐えられない。そんなことになったら発狂したっておかしくはないような気がしている。この非対称性はなんなのかといえば、他人の死というもののインパクトのグラデーションは、圧倒的に広いということに起因するのだと思う。僕の場合、自分が死ぬことの自分にとっての恐ろしさは0から100でいえば、30くらいしかない。そして世の中のほとんどの人の死は10にも満たない。でも妻の死は90から100の間にあるだろう。だからとても耐えることができない。

ということは多分、僕の父の心にも、似たようなことはあったのだと思う。自分が死ぬことは、不摂生な人生を思えば妥当なものとして受容できる。しかし健康体だった妻(50歳を過ぎて100kmマラソンを完走するような女性なのだ)が先に死ぬことはありえない。受け入れることができない。しかし肺がんの最初の告知から3年数ヶ月で、その日は来た。その認知上の強烈な不整合にどう折り合いをつけるのか。
たぶん、今でも父の中で折り合いはついていない。だから、日常では、慣れない料理をしたり、ボロっちくなくった家の修理をしたりして、とにかく気を紛らわせて生きている、と僕には見える。もともと社交的でもなく、所属するコミュニティもない人なのだ。

とまあ、こんなことを書いていると、僕は父と仲が悪いのだと見えるだろう。正直なところ、別に仲が良いわけではない。しかし母の死後、残されたもの同士の、頼りないがしかし覚悟を決めた紐帯の関係性がそこには少しずつ築かれていったということは、記しておくべきかと思う。
僕は少なくとも妻がいるし、妻以外に特に大事な人はいない(大事な人がいないという文脈に、父が含まれていることは否定しない)。しかし父にはもう妻はいない。そこに対する喪失の痛みの想像ができる程度には、僕もまた喪失を受け容れる過程で変化をして、生きていっている時間があるのだろう。

だらだらと書いてきたが、特にオチはない。
大切な人を失うということは耐え難いとしても、失わせる、すなわち命が終わっていく当人は、コントロールできない状況にあるようでいて、実は選択をすることができるかもしれない、そして亡くなった人はときにそれをしていたのかもしれない。その可能性を想像できるとするなら、実は大切な人を亡くすこともまた、少し意味を変えて受け容れることもできることもあるだろう。
そんなことを思う、冬。

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