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もし外側に世界が無いのなら

この世で一番の驚愕級の奇跡。
それは、「わたしの意識」が無ければ、何ものも存在しないということ。
ここ最近、一日に何度もこの奇跡に想いを馳せます。
この奇跡に立ち戻ること、この「当たり前の奇跡」を思い出すことは、「本当の自分とは何か」を思い出すことです。

夜に眠りに入る時、意識は気づきの状態から、休息の状態に入ります。
深い眠りの中で、意識が完全に休息する時、意識はいかなる外側の対象にも気づくことがありません。
意識が何の対象にも気づいていない時、わたしの外側に世界はありません。わたしの意識が気づいていない時、あなたの意識が気づいていない時、外側に世界は存在しないのです。
何かが存在することは、意識がそれに気づいてはじめて知られるものです。
気づきの意識から外れたところに何かが存在すると、誰が実証できるでしょうか。

わたしという意識に気づかれてはじめて、体と名前を持つ私個人が現れます。本当のわたしは、体である前に、名前を持つ個人である前に、人間である前に、意識なのです。
意識の気づきという「光」が当たることではじめて、私個人と世界が現れます。本当のわたしとは、世界を現している意識という、万物の「源」です。
このことを深く受け入れることは、アイデンティティのコペルニクス的転回となります。奇跡のコースの言葉で言えば自分が「神の子」であることを受け入れるということです。
なんという力を、わたしたちは皆持っているのでしょうか。
そのすごさに、その素晴らしさに、ほとんどの人は気づいていません。
なのでここではこの真実を「奇跡」と書いています。

しかもこの驚愕級の奇跡は、世界で一番平等で、最も当たり前で、その恩恵に値しない人など世界中に誰一人としていないのです。
「救われていない人など誰一人いない」という言葉は、この「奇跡」の究極の公平性を指し示しています。神がその力を万人に惜しみなく分け与えたのは、紛れもない真実です。
けれど私たちは「源」である本当の自分を忘れて、自分が映し出した個人という作品の物語に夢中になります。「私個人」という作品の欠点を挙げ連ね、ささやかな美点に存在価値を見出そうとします。
でも真実は、わたしたちは予め、神と同じ創造の力と、何ものにも脅かされることのない存在価値を与えられているのです。
もう一度言います。わたしの(あなたの)意識が無ければ、この世界は存在しません。

この奇跡を受け入れた上で、「私個人」はどう生きていきたいのかということも、ここ最近よく考えます。
本当のわたしとは万物の源である意識で、わたしの外側に世界は無いのなら、わたしは何を幸せだと感じるだろうかと、それをよく考えます。
この答えは人の数だけあることでしょう。自分の力をとことん試して、世界にあっと驚くような創造物を現すこと、無限の豊かさを思う存分堪能すること、仲間と体験の喜びを分かち合うこと、スリリングな冒険を楽しむことなど。
これまでの人生で何度か「もうこれ以上何も望まない。最高に幸せ。」だと感じる瞬間がありました。それはいつも、静かな自然の中で風に吹かれている時でした。
何かをしている時でも、何かを手に入れた時でもありませんでした。
それは「わたしが居ない」瞬間でした。
だからこれからの人生、より多くの時間、そんな幸せを実感するような生活がしたいのです。
何かをはじめたり、何かになろうとすることに、この先興味を抱くことがあるのかないのか分からないけれど、自分こそが「源」であるという、その奇跡の驚きの中で生きていくこと、そしてその「源」の美やきらめきや神秘を何かしらの方法で表現していきたいと思います。それはやっぱり言葉を綴ることによってなのかなと思います。
自分にとってはそれが一番、神に報いる道のような気がしています。

写真は自宅から徒歩10分の公園でごろ寝しながら撮ったもの。至福を感じていた瞬間です(笑)



※kindleから、これまで書いてきた記事を編集して電子書籍を出版しました。
「なにもなさに開く ふるさとへ還る ~心を物語から解き放つ~」




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