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「罪」を笑え

 世の中や個人の人生における不調和や不幸な出来事、または病気。これは奇跡のコースでは「罪悪感が投影されたもの」とされます。
 「罪悪感」っていったい何に対する罪悪感なのかというと、「神から分離して勝手にこの世界を作り出してしまった。」という罪悪感なのです。もうこの時点でほとんどの人が「はぁ?」となって着いて来ないと思います。(笑)

 私自身も、このことを実感できるまでにはコースを学び始めて3年くらいはかかったと思います。なのでもちろん、この概念を受け入れてもらおうと思ってこれを書いているわけではありません。「ぜんぜんピンと来ないけど、まあ仮定として受け入れよう」と思って読み進めていただけると幸いです。

 この概念がコースを学んでいる人にすらなかなか受け入れられないのは、この「神から離れた罪悪感」がとてつもなく大きく恐ろしいものだからです。それは直視できない程なので、自我はそれを心のずーーーっと奥深くに押し込めて封印しています。なので日常の中で自覚されることはありません。
 けれどその罪悪感の感情のエネルギーもまた強大なものなので、それが無いフリをして生きていくこともできないのです。そこで心は「投影」という機能を使って、この不快なエネルギーのガス抜きをします。

 投影とは「これは私のものではなく、外側で起こったあの事、外側に居るあの人の持っているもの」として、外側の何かに、自分の内側に有ると認めたくないものを映し出すことです。「これは私の罪じゃなくて、悪いのはあの事。悪いのはあの人」という風に罪悪感は投影されます。
 つまり、罪悪感が投影されることで、なんだか不愉快な出来事や「悪い人」が身の回りに出現してしまうのです。

 投影の仕組みを学んだ人が陥りやすいジレンマは「なんでも自分のせい」にしてしまうことです。「ああ、悪いのは私ね。はいはい。」みたいに。
 この考え方は半分合っていて半分間違っています。投影したのは間違いなく自分です。けれど、投影の中には一切の罪は無いのです。
 イエスがコースで一番力説したいこと、それは「あなたはなーんにも悪くない!だから今すぐ自分を責めるのをやめなさい!」ということじゃないかと、ここ最近よく思います。

 コースにこんな言葉があります。「その想念(罪悪感)は、至高の幸福ではないすべての感情の根底に横たわる単一の想念である。それが警報となって、あなたは完璧な喜び以外のあらゆる種類の反応を示すことになる。あらゆる悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、疲れたときの小さなため息、かすかな不安感やしかめ面さえも、みな死(=罪)を認めている。」(ワークブック・レッスン167)
 もし「自分に罪なんか無いし、自分を責めてもいない」と思ったとしても「小さなため息、かすかな不安感やしかめ面」がすでに、罪悪感を持っていることを証明しているということです。または「いけすかない誰か」が居ること、腹立たしい出来事、解決しない問題なども、他でもない自分自身の内側に罪悪感を抱えていることの現れなのです。

 コースが差し出す問題解決の方法は「赦し」ですが、これは厳密に言えば「外側にいる悪いあの人」を赦すことではありません。そうではなくて、まずその「悪いあの人」が自分の心の投影であったことを認めます。そして大事なのはこの先です。
 投影はなぜ起きたのでしょう?
 それは「私には罪がある」ことを信じ込んだからです。その罪悪感に堪え切れずに無意識に外側に罪を投影してしまったのです。

 では初めに戻ります。「私の罪」とはなんでしょう?それは「神から離れて勝手にこの世界を作り出してしまった。」ということでした。
 ここでイエスは言います。「あなたは一度もそれを行ったことは無い」と。
 つまり神から離れたことも無いし、この世界を作り出すこともしなかった。ということです。それは一度も起こったことが無いのです。
 ただ私たちはそれが起きたという「夢」を見ているだけなのです。

 神から決して離れることのできない私たちに罪を犯すのは絶対的に不可能です。罪を犯した「夢」を見ることができても、実際に罪を犯すことなど、誰一人できないのです。
 この、「私は罪を犯したことがなかった」と理解することが「赦し」です。

 私はどのような罪も犯したことが無かったと認めること。そうすることで心の奥深くに封じ込めていた罪悪感という重く苦しいエネルギーが薄まって行きます。罪悪感が薄まった心は、外側に罪を投影する必要が無くなって来ます。そうすると自然に周りに嫌な人や不愉快な出来事が起きにくくなります。
 このことはまたこう解釈することもできます。道を歩いていたらいきなり向こうから歩いて来た人がぶつかって来たとして、もしそこで内側に罪悪感があればそれはただちに投影されて「なんて乱暴な人!」というジャッジが起きます。まるでいきなり攻撃を受けたような感じがするかもしれません。
 逆に罪悪感が癒された心は投影することが無いので「人がぶつかって来た」という事実にどんな意味付けや色付けをすることもありません。ちょっとびっくりはしても意味付けやジャッジが起こりません。
 こんな風に、内側の罪悪感を投影しなくなると、同じ出来事に遭遇してもその受け取り方が大きく違って来ます。

 コースは、あらゆる罪の「原因」それそのものが存在しないと教えます。分離が一度も起きたことがなく「ひとつである」という状態しか無いのであれば、誰が誰に対して罪を犯すことができるでしょう。
 ほんの小さなため息や、漠然とした将来への不安、なんとなくこのままではいけないような落ち着かない感じ。そんな不快感を感じた時に「私は何を信じているんだろう?」と自問するようにしています。
 そんな時必ず、そこに罪悪感の黒い影が見えます。その瞬間、自分の罪を信じているのです。

 心の力は絶大です。ほんの些細な黒い影でも、この罪悪感をそのまま持ち続けるとそれはいずれ投影されます。けれどその黒い影を認めた時に、「自分に罪を犯すことは不可能だ」ともう一度思いなおして自分を赦すと、心の絶大な力を幸せのために使うことができます。ベクトルを大きく変えることができるのです。

そんな日々のささやかな赦しの積み重ねが、強大な罪悪感を溶かしていく一番の近道だと思っています。


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