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我作为僵尸的人生 #15

 私の生まれた長崎市は江戸時代から国際都市だった。
 祖父がペンキ屋を営んでいた出島はオランダ商館があったところ。もっともその当時は出島は埋め立てられていた。
 西欧人だけではない。チャイナタウンもあった。新地中華街である。
 曾祖母の妹・トリは姉を追いかけるように天草から長崎に出てきて、新地で貿易商をしていた中国人の曹さんと結婚した。
 昭和のはじめ、新地で大火事が発生した。引火した花火が夜空に打ち上がって綺麗だった、と叔母は言っていた。曹さん一家は焼け出されて、館内町にあったウチの家に転がり込んできた。家は二階建てではあったものの、曹さん一家は総勢11人で、かなり窮屈だったという。
 曹さんは子供たちのうち、男子は中国名、女子は日本名を付けた。女子は全員お嬢様学校の活水学院に通わされた。
 長女は香港に渡り、不動産業で成功し、財を成したが、香港が中国返還された時、カナダに移住した。
 次女は長崎に住んでいて、何度かお宅にお邪魔した。
 長男は北京大学を卒業したエリートで、上海〜長崎を往復していたが、船の事故で手を負傷し入院した。第二次世界大戦後はアメリカ軍の通訳をした。生涯独身を貫いた。
 次男も北京大学卒業で、通訳をしていた。
 三女は日本人と結婚し、東京に移り住んだ。
 三男も北京大学卒業だが、台湾に住んでいた。ちょくちょく日本に里帰りし、何度かお会いした。お孫さんの男の子を連れてこられたこともあった。読売巨人軍のファンで衛星アンテナで日本のテレビを見ている、とおっしゃってた。「台湾に遊びにおいでよ」とも言われた。「美味しい日本料理店に案内してあげるから」。(いや、せっかく台湾に行くのなら美味しい台湾料理を食べたい! でも結局行けなかった……)
 四女、五女も活水卒業。
 六女は佐古小学校で父の姉(つまり私の叔母だが、私が生まれる前年、生まれたばかりの男の子と一緒に死んだので、写真でしか知らない)と同級生。その後、神戸に移った。

 ある年のお盆に、父と一緒にウチの墓の地下の納骨室に潜ったことがある。一族の家系図をこつこつと調べていた父は、納骨室に誰の骨壺があるか、気になったのだ。狭くてジメジメした中、私が懐中電灯を照らし、父は骨壺の上に紙を当て、鉛筆でこすり、骨壺に刻まれた名前を写し取る。家系図にない名前が6人もあったのは発見だった。もうひとつ、興味深い発見は、外国のコインが多数混ざっていたことだ。父は親戚に〝からゆきさん〟がいたのではないかと推理した。一族の故郷、天草では、貧しい娘たちが家族を養うため、海を越え、アジア各地で売春婦をしていた。それを〝からゆきさん〟という。真相は謎だが、からゆきさんと反対に売春斡旋で性搾取する〝女衒〟だったら嫌だなあ。

 と、国際色豊かな我が一族であるが、私は人生において一度も海外旅行をしたことがない。弟は会社の仕事で、アメリカ、スウェーデン、中国・上海に長期滞在していたのに。もっとも、インターネットで多くの海外の友人は得られたが……。

(つづく)

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