妄念宗宣言

現実を直視する、現実と向き合って生きる、よく聞く成句、だが妄想や幻想もまた、生きるという真正の現實のなかでのみ生じるものだ。自分の世界にばかり逃避して、と詰る人には、非常口のランプが常に外を指している現實を想起させてやるのがよい。彼らが尊び重んじる現実とは、ただ、内なる囁きに耐え得ない者たちの絢爛たる避難所ではないの、かは。

理想、これもまた、現実至上主義に照らせばひとつの妄想であるから、彼らは日に陰にそれを軽んじ、ときに蔑む。夢も、思想も、創作も、どれも同断。

彼らの御本尊はと言えば、illusion の権化、貨幣菩薩に獲得所有の日光・月光であるから、どうにも失笑を禁じ得ないのだが、錯覚、これもまたひとつの現實であり、慈悲深い吾ら妄想宗徒は、ただ静かに彼らの蒙を憐れむのみ。

言うまでもなく、吾ら妄念宗に於てもまた、現實はもっとも重んじられる。

しからば現實とは何か。
有無を言わせず裁断された三次元の存在、そこに強要された存在者としての点、そのような自動人形を果然脱ぎ棄て、省察と智慧に依って、四次元を自由する、在り方――それが現實だ。

春にのみ春し、此処をのみ此処し、これをのみこれする窮屈、そんな現実は、決して現實ではない。
真逆なのだ。

令和六年の三月某日と應永十四年の九月某日を、ともに在る、日本の某市とブルキナファソのカディオゴ県に、ともに在る、年収百万円と日商六億円を、ともに在る、御社のコンプライアンスはいったいどうなっているんですか、と、にゃおにゃあすりすりぺろぺろごろりを、ともに在る and so on and on――このような修練を不断に積む日々、これが、これのみが吾らをして、現實のフルメンバーたらしめるものだ。

理想と思想は人型のむくつけき獣に食い荒らされた、される、だろう。夢と希望は屍となり骸となり、やがて骨片は粉々にして風に舞った、舞う、だろう。書は焚かれ、儒は坑された、る、だろう。
それでも吾らは希う、思う、夢みる、たとえ挫折を重ねても、不遇に打ちひしがれても、病に苛まれても、吾らの衷には滾々と止まぬ妄念の泉がある。

いざ、現實を直視せよ、内なる囁きに誠実たれ。浮薄なる戯言を嗤い、地に足着いた虚言と共にあれ。Let yourself be the Universe.

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