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駄文――15年後の娘へ

お父さんは、いちばん賢くて、いちばん愉快で、いちばん為になる文章を、ぜんぶまるごと捨ててしまいました。あなたに残せるのは、こんな鈍い、綴方のようなものだけだけど、それでも、誕生日だもの、何かあげたい。あなたを思えば、ことばを紡げる。不思議な気持ちです。

次にこんな気持ちになるのは、いつになるだろう?

*

ぼくは、いつも笑っています。いつも。

ぼくにはどうにもできないことを、ぼくは、どうにかできると信じて生きてきました。どうにもできないこともありましたが、どうにかできることも、実際、少なくはなかったように思います。

ぼくは、まず、ぼく自身を変えることができると気づきました。反復と分析と自己犠牲、もちろん、そんなスクエアなことばは知らなくとも、ぼくは、かけっこで負けなくなったし、剣道がすごく強くなったし、勉強も大変と思うことはなかった。

次に、ぼくが変わることができたその体験を、ほかの人に伝えてゆくことができると分かりました。若いころのぼくは、ことばと伝える術に長けていたから――それもきっと、ぼく自身を変えてゆく、そのひとつの過程で獲得したものです――ぼくは少なからぬ生徒たちに、勉強を少しはみ出た何か、今思えば、素手でものを考える喜びのようなもの、を伝え、共有できたように感じます。その手応えは、いまも残っています。

どうにもできないことを、どうにかすることが、有形無形の犠牲を払うものだ、と気づき始めたのは、いじめに遭った時でもなく、大学をドロップアウトした時でも、就職に苦しんだ時でもなく、三十過ぎて、仕事がうまく行き過ぎるほど軌道に乗ると同時に、呼吸ができず苦しむ症状が頻発するようになった、その頃でした。数年間隠して「パニック障害」という名札をもらい、それはただの名札なので、ぼくには、何も思うことがなかった。仕事のために、それが生きるためだから、疑うことなく躊躇うことなく、頭の薬を飲むようになりました。パフォーマンスを下げる、口幅ったいですが、人生観のようなものを修正する、そのような考えは、浮かびもしませんでした。

ほかの先生がたが伝えない、伝えられない、伝えることを放棄した、まさにその点をこそ、ぼくは伝えようと志し、伝えてきました。根深い、教育業の侮蔑と、教育への敬意を具現化した存在であろうと決めていました。そしてそれは、今だから言うが、魂に血のにじむような苦行でした。ことばを語るそのことばを同時に分析し、常に自らの発言に meta の評価を下し続ける、それがぼくがことばを扱う基本姿勢でした。ぼくの吐くことばは、氷河のように広く、澄んで、尖っていた。

ぼくは、そのような在り方でしか、ぼくが生きているという【これ】を肯えなかった。「もう、そんなもんでいいんじゃない? 」という現状肯定は、人間の生ではなく、有機体の生存、にしか思われなかった。そして、棲む世界はいつも変わらないから、ぼくは自らの意図で、加速的に、孤独になった。

頭の薬は次第に増え、取り返しのつかないところにきていました。取説に書かれる依存症のほとんどを満たし、一旦仕事をしくじったぼくは、そこからの5年、かつてあれだけ見くびっていた、有機体の生存、それさえもままならぬ体で、ただ生きていました。

それでも、ぼくはいつだって、過去新記録を出さねば、と強迫に駆られぬ日はなく、厭かず仕事を探し、続かず、また探し、をコマネズミのように繰り返していました。頭の薬に骨の髄まで操られているのは、気づいていました。そして、断薬の苦しみと生存の苦しみを、日日刻刻天秤に乗せ、12月24日の夜に、ぼくは惨めに死に損なった。

1月のあたま、ぼくは薬をすべてやめました。ものすごく苦しかったが、生き恥、というこの恥ずかしさに比べれば、どうにもできないことは、ありませんでした。今もやはり、どうにも頭が生きづらいことは多く、また頭の薬に溺れたいという衝動は、たびたび訪れます。しかし、飲んでも、生きるという【これ】は、その本質上、結局何も変わらず、つまり、太宰のあの『トカトントン』――ぼくが一番好きな、あの作品――なのです。

そしてこのたび、最後の大決断で、あなたの住む土地で就活と移住をした3日目、ぼくの神経伝達物質は、筋肉に命令を伝えることをボイコットしました(あなたはきっと、お父さんのこの病気を知っていることでしょう)。「原因不明の指定難病」だそうですが、医師には言わないまでも、ぼくには分かりすぎるほど分かっています。ぼくに封印され、緘口され、黙殺されてきた方のぼくが、ありとあらゆる術を行使して、叫んでいるだけのことです。

どうにもできないことは、どうにもできないんだ!

と。

*

74年前のあなたの誕生日、日本は戦争に負けました。ふたつ前の天皇陛下が、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」降伏するよ、とラジオでみんなに語りました。

堪へ難キなら、堪えないで。
忍ヒ難キなら、忍ばないで。

*

みんなが、賢くて明るいあなたに、きっと、たくさん、たくさん過ぎるほどのことを期待し、要求してくることでしょう。それは仕方のないことです。

あなたにはただ、この叫び声ひとつを、いつも覚えておいてほしいと、それだけが、ぼくの心からの希いです。

どうにもできないことは、どうにもできないんだ!

辛くなる前に、追い込まれる前に、もちろん、壊れてしまう前に、きっと叫んでほしい。

笑顔でいられるうちに。

*

何ひとつ、普遍的なこと、有益な共有情報、そのようなことは語れません。大して面白くもない。PVだとかフォロワーだとか、もう、そういうものも、心底どうでもよい。

ただ、ぼくにとって、2016年の古き良き note, お上の商売臭とは無縁の、ことばと思索を好きな人が、てんで自由に各々のことばと思索を書いていたあの頃の note, 確かにあの頃、ぼくは既に壊れていたけれど、それでも、やはり書きたい、と心を震わせてくれた note,

«あなたが生まれてきてくれた年です»

それが、ふと、無性に懐かしく、耐え難い首の辛さをしばし忘れて、こんな駄文を綴ってしまいました。

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