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魔法はまだ続いているから

 百円の魔法使いは、とっきゅうのれっしゃに乗って帰っていった。

 昨夜遅くから、病状はほぼ最悪だった。首と胸元が苦しくてうまく眠れず、何度も何度も乾いた咳をして妻を起こしてしまう。北の大地の北の山際が明るみはじめたころ、私はようやく眠りについた。

 「った」
 妻の声で目が覚めた。娘が、お地蔵さんのような顔で、私の胸元に眠っていた。すぐに蹴る毛布を着せ、おとおさんのさっぽよに興奮して眠りの浅いこの子を起こさないよう、這って台所に行く。
 流しには、血が垂れていた。人差し指に傷口が開いている。消毒液と絆創膏のある場所を伝え、私は声を出して立ち上がり、大根の引き継ぎをする。
「はじめてだよな」
「え?」
「料理で怪我すんのとか、珍しいしょ」
んー、と私の横に座り込んで首をかしげる。「ないことはない、けど」
「けど?」
「とおちゃんさ」
「うん」
「ずっと、なんでも、無理でも壊れるまで、絶対にあたしとカナエに言わないから」
「あー、うん」
「怪我したとかさ、熱が出たとかいろいろ言わなくて済むのは、言わないのさ」
 
 大根を終えて、そのまま味噌汁を作る。娘を起こすと、まだねむかったみたい、と何度も言いながら布団に潜る。ずっと寝ていても、ちっとも構わないけど。
「ねえねえカナちゃん」
「なあにおとおさん」
「びっくりニュースだぞー」布団を肩までめくり、こちらをじっと見つめる。
「おとおさんが作りました」
「なにちくったの?」
「お味噌汁」
 ぬくっと飛び起きて、「まま、かなえちゃん、おとおさんのおみそしうたべたかったんだ」と、母のところに駆けてゆく。
「カナエ、今日はお味噌汁食べるのかい」
「あたし、おみそしう、いちばんだいすきでしょ?」カナエの苦手な食事は、おみそしう。
「ごはんと、お味噌汁と、」
「ごはんは、いやないの」
「じゃあ何食べるのさ」
「しりあう」カナエの得意な食事は、シリアル。

 妻と私は、ごはんと納豆と味噌汁。
 娘は、苺のしりあうと唐揚げとおみそしう。
 「シリアルとお味噌汁、合うかい」妻がにやりと笑ってたずねる。
 カナエはずっと、神妙な顔。
 ふたりでたまらず、久しぶりに大笑いする。
 カナエもつられて、きゃきゃっ、と大笑いする。

 三歳になって、何でもないようなことをびっくりニュースにしてくれる娘が、私の横にひょっこりとやってきた。何でもないことなんか、ひとつもない。見るもの、聞くこと、触るもの、どれもがびっくりニュースのカナエが横にいてくれるだけで、私はまるで嘘のように動くことができる。昨日、三人でつくった百均のビーズティアラみたいに、プリンセスの魔法は、信じる者にだけてきめんに掛かる。彼女は百円のプリンセスで、私は百円のプリンセスの王子さま。
 でもね、ごめんな、カナエ。おとおさんは、ずっと前から、ままの王子さまなのさ。

 魔法の隙間に現実というものはあって、お箸はうまく持てないし、足は利かなくなるし、眼はちゃんと見えないし、居ても立ってもおられない怠さは容赦なく襲ってくる。
 朝食のあと、うまく痰が切れない。呼吸が嫌な感じになった。
 「おとおさん、だいじょうぶ?」
 「おとおさん、むりしなくていいかやね」
 「いたいのいたいのとんでけ」
 答えなんか分からない。まだ小さい娘に、布団でこうやってあやしてもらう父が、正しいのか分からない。
 「おとおさんは、まいにちいっぱいむりすゆから、たいへんだよね」
 娘のことばの端々に、離れて暮らすままの口癖が分かる。
 「おとおさん、にがいにがいのこーひー、だいすきなんだよね」
 耐えて耐えて、私には決して言わない妻のことばが、娘の柔らかい唇から、春風のように流れてくる。
 「おとおさん、だーいすき」
 おとおさんはお布団の中で泣いてるんだよ、とは、私にはまだしばらく、うまく言えない。

 ふたりをさっぽよの駅へ送り、うちに帰ると、スマホの充電器と、プリンセスのティアラが置きっぱなしだった。またかよ、とつぶやきながら、大事な時に必ず何か忘れ物をする同志が、ひとりから、ふたりになったのがおかしくて、私は大笑いしてみた。

 ほとんど手付かずのシリアルと、二食分のお皿がたくさん、シンクに積んである。皿はそのままにしといて、とりあえず指は濡らすなよ、と魔法に掛かった勢いで啖呵を切った対価だ。休み、休み、この山盛りのお茶碗を洗えるのが幸せで幸せで、時間差魔法さえ覚えたらしい娘に「びっくり」しながら、私は彼女のトラップの百均スライムを踏んづけた。

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