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ことばに自信があったから、ことばに臆病であった話

これが答えだ、どうだ、とまるで王手のような表情をした文体の内に、へっぴり腰でおずおずと置いた語どもが、いたたまれない佇まいで縮こまっている。

文体が謙譲ならば、かえって語の奴らはのびのびとくつろいでいる。そんな慇懃にして傍若無人な文章たちを、わたしのぎこちない文章は常に怨望し、とどかないその境地をいつしか憎みさえする。
わたしの文章が、わたしのものでない文章を憎しんでいる気配に、わたしのことばを紡ぐ手は進まなくなるのであった。

生身のわたしは、いつも堂々と振る舞い、憎らしさにも結びつきかねない余裕を醸すらしい。つまり、筋金入りの優等生の気配なのだが、それは完全な誤解なのであって、わたしほど怖じて生きる人は、そう居はしないにちがいない。

文体とは、それはひとつの憶説ではあるが、紡ぎ手の脚が地に着く、その着き方である。手の振りでもなく、背筋の伸び具合でもなく、足の指、拇指球、踵、それらが地球へ食い込む姿である。
背を伸ばし、顎を引き、腹と臀部に力を込め、とそんな区区たる振るまいをいちいち過剰に意識し、肝心の足は文字通り、「浮き足立っている」。語どもの腰がひけるのは、彼らにことばを委ね過ぎた当然の結果である。

この滑稽な転倒の源泉は、正しさ(という幻想)に対する神経症的な拘泥である。
ひとりの人の思考など、どれも野蛮で独善的にちがいなく、だれもが獣道をガムシャラに進むほかないようなものだ。獣道を正しく獣道であると観じず、まるで均された王道のように肩肘張って往くその様は、あの裸の王様と何も変わりはしない。

4六歩だけをいかほど凝視しても、どれだけ分析しても、その一局は見えない。
散文における微視主義は、単にお門違いのこだわりである。

という中身の夢をみた。

夢の中のわたしは笑っていたが、こちらのわたしは、少しも笑えはしない。


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