しのぐためだけに書く

厳しく心を穿った修行をひたすらに積み、その成果を衆生に還元しようと、襤褸切れを身にまとい、街中で穏やかに説法するお坊さんは、残念なことに、臭い襤褸切れだしキャッチーなディスクールじゃないしで、ものすごく馬鹿にされました。お坊さんが語る教えは、誰も聞いちゃいませんが、人は外見ではない、そのことばだ、ことばは宝飾ではない、魂だ、というすぐれて言行一致のものでしたが、やはり、ぼくたちは臭い襤褸切れを着ている薄汚いジジイをはなはだ軽んじる。「ぅわたしのっ!つたえたいことわぁっ!3てん!ありますっ!」(轆轤を回しながら指を三本高らかに突き上げる)式でないやり方は、プレゼン能力が低いし、カスタマーのインセンティヴにアピールしないから、だめなのでした。

皮相的なことが、よくないわけではない。××の数は大して変化しない(圧倒的多数)、とぼくの直観は教えてくれるので、時代の別なく、人間はだいたい××なのです。見事な判断と理性を見せてくれる人は、どの時代にもいる。見事な判断と理性を見せてくれるマスなど、いつどこにいたというのでしょう。衆寡敵せず、というのは、まあ大体すべての賢人の遺言です、知らんけど。

ただ、遠くない過去に、分(bun)、というものが見事に粉砕されたから、誰もが「私は××ではない」という前提と強制力のもとで生きることになった。××とは、旧陋な封建制と劣悪な教育システムの犠牲者、という建前がのさばることで、民主制と義務教育の徹底は理論上、××を根絶する基、何しろ民主制の申し子で、学校にもだいぶ通ったのだから、私が××なはずはない。かような残念なボタンの掛け方により、××ではないと信じる××(××の認識が欠缺していることにより、より××)が飛躍的に増えただけのことでしょう。皮肉の一欠片もなく、哀れな現代社会です。

知識は化粧で、知性は本体です。かなり最近まで、物知りはただの物知りだった。別段、そのような人を「頭がよい」やら「賢い」やらではなく、それは全然別個の特性だった気がします。同様に、難しい学校に行った人も、旧制の頃は「選良」でこそあれ、それが知性とは異なる属性の持ち主だと、恐らくは自他ともに知っていたように思います。現代の日本人に限って言えば、同時代の《有無を言わせず、とにかく凄い人》の存在を、絶対に認めたくない、認めたら負けだ、なぜならニンゲンハビョウドウナンダカラ、という酷い有様です。言わずもがな、故人になった途端、ああ天才だった、惜しまれる、なぜ生前評価されなかったのか、生前に評価を断固拒んだのは、正にそのような手の平クルリストです。

整形手術に関して、感覚上、ぼくは肯定の立場です。一方、理論上、ぼくは断固として否定の立場をとります。ドミノ式権利拡大に流されれば、それは所詮、服飾や化粧の延長に過ぎないのだ。もし一元的美しさが不変ならば、美しくない人生より美しい人生の方がハッピーに決まっている。WHY NOT? しかし、知識と知性の thin bold line (正にこの線引きを認知できるかどうかが、知性の有無の一つの試金石のような気がします)は、装飾と整形の line と軌を一にしています。「やれば出来るさ 出来るさやれば やれば出来るんだから やらなきゃダメですよ」という、むかし西友の CF に使われていた歌詞を、人類衰退のコアを言い当てた呪いのことばだと、かねがねぼくは詠嘆しており、翻って、「やればできる だから やらない」こそが知性のひとつの具現と信じています。

さて、ぼくは、やればできる、だからやる、できた、を積み上げて、アホの子のようにここまで生きてきました。つまり、何を隠そう、ぼくこそが、代表的××です。××を上から叩きのめしているように見え、その実、ぼくはぼくを横から叩きのめしている。このような重層的なぼくの在り方は、ぼくのぼくたる所以であり、人から叩かれる微かな予感と同時に、見事な先制自爆により敵の攻撃を防ぐ、敵の攻撃は実体的ダメージに繋がるが、自爆はある種 imaginary な擬制で、そのような身の守り方が習い性となった、つまり、ぼくがぼくを批判することは、長年、ぼくがぼくを守ることと完全に一致していたのです。

しかし、そんなことは原理的に不可能です。ぼくは、このようにして、絶えず的の真ん真ん中を射る自己批判とともに大きくなり、大人になり、老いようとしている。そのようであるから、自分を大事にする、自分を認める、自分を褒める、などの意味がまったく理解できないのです。かなり、文字通り、致命的なことです。ぼくが掛け値無しにぼくを認めることができるのは、十分過ぎるほどお金を稼げている時だけ、です。書いてて、あまりに痛い自己肯定のあり方だ。いったん高給の歯車が狂うや、鬱に苛まれ、鬱が嵩じて定収入が経たれ、なけなしの自我は崩壊寸前、これが××でなくて、何が××でしょうか。チープでキッチュな、笑えてくるような、大××者だ。

ようやく朝が来ました。今日も何とか、幻視の恐怖を乗り越えた。消えてしまいたい衝動と睡眠不足のダブルパンチは、なかなかフェイタルです。

もちろん、表題がすべてであります。

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