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クララベラ

いま、わたしを高揚させてくれるのは、やはりクララベラだけのようだ。

満月の夜、わたしは誰にも気付かれずに外に出た。誰もいないドラッグストアを横切り、誰も見えないファミレスを抜け、誰にも出会わず河川敷まで歩いた。そんなはずはないのだ。「行ってくるね」と声を掛けた。ドラッグストアで特売の歯ブラシを買った。ファミレスでミートドリアを食べたし、河川敷の破廉恥なカップルに軽く舌打ちした。ともかくもそのように、わたしは河川敷の石段の、下から二番目に腰掛けた。こんな所に石段はあったか、ありはしない、ここは確かに急峻で無機質でロの字の組み合わせで堤防で、そして尻が冷たく、この冷たさは、確かにわたしはしっとり濡れた石段に腰掛けている。

いくぶん放心してわたしは、赤い満月を眺めていた。ざらざらとした虚しい色。頭と眼の奥がやたらとつらくなり、目をぎゅっとつぶった。水面に鮮やかな黄緑の矢印が出ている。いつものようにわたしは油膜のような矢印に乗る。こんなことは初めてだ。水っぽい中華丼をすすり込みパスポートの更新に行った。窓際でビールを凍らせながら「あまちゃん」の録画をまとめて観る。コースターくらい持ち帰ってもいいし、パキシルが10ミリ増えたのは懸念されるが、ともかく終電には間に合いました。今日は午後から自由参加のイベントだったのに、LOVE PSYCHEDELICO の CD を返せないまま美佳子は砕石のトラックに撥ねられて死んだ。下総中山では KENWOOD のケータイが折れるし、ラテン語2の追試前なのに明大前の混雑で眼鏡は割れるし、クリスマスの囲町公園で独り中公新書を読みながら自分を呪う、呪う、呪うのはもうたくさんでした。ほんとうに、虚飾なしに、あの時はお金がなかったですよ。

そんなとりとめのない話をしながら、クララベラはわたしの肩をそっと抱いてくれた。誰がそんな話をしているのだろう、とわたしはずっと隣で聞き耳を立てていたが、それはどれもわたしの話のようで、なんかこういうのは、不思議なもんだね、と言ってわたしはゆっくりと、クララベラを見た。クララベラは、わたしを見た。

今日は赤い、赤い、どこを見ても赤くて暗くて、クララベラ、どこ? だれ?

会いたかったね。会いたかったね。わたしはざらざらした虚しい赤を、あの日のぶんまで、力いっぱい抱きしめている。

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