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『復』は復旧?それとも復興?――「復職」からひと月

これは半ば以上、自分の今後の生業、今後の生き方、何より常に全力以上を出し切っている、このひと月の自分の思考をまとめるための文字だ。

ちなみにアイキャッチは本文とは寸毫も関係ない。娘が考えた架空のキャラ「シャービー・ミンド」を、父親が自宅の黒板に適当に描いたのである。

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発病前に転職を決めた塾は、40年前に戸建ての一部屋から始まった町塾だ。
いまは、その戸建てを塾に明け渡し(社長は近くに別の家を建てた)、2つの新校舎――これもやはり住居を塾にリノベしたものである――を開き、今どき珍しく、コンスタントに生徒数を増やしている。

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主に小学生と中学生がターゲットで、どちらかと言えば、いわゆる「出来る子」ではない生徒が多い。私が住む区は、従来貧困層が多く、経済的にも学力的にも、従って進学志向も、今なお決して高くはない。ブルデューの一連の研究対象、あるいはウィリスの描く「ハマータウン」を実地で見るような現場である。

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(以下、ひと月、不思議な位置から働き、話を聞き、眺め、分析した主観を交えての記述である。そう、文化人類学における「フィールドワーク」の実践だ。)


そのような環境のなか、進学実績が業績に直結する塾業界で生き残るために、企業側が執る方策は、必然的に「効率主義」と「高圧的な指導」に至る。曰く、
テストに出るものだけ集めてある。出ないものは要らない。
とにかく覚えなさい。
数をこなせば、出来ないことなどない。(出来ないということは、数をこなしていないということだ。)
特に、高等部への通路が閉じている以上、学問の指導として優れている必要はなく、またそのフィードバックも行われないままだ。大学・大学院の入試指導に人生の半分を費やしてきた身からは、実に懐かしい、むしろ新鮮な現場のコンセンサスである。

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講師はすべてフルタイムの正社員だ。企画・作成も財務・経理もスケジュール管理も、もちろん授業も生徒対応も、この講師だけで回している。数百人の生徒に対して、講師の数はひと桁。明らかに回らないものを、限界まで効率化したマンパワーの搾取と、経験による自動運転により、なんとか回している。率直に言えば、なぜ回っているのか、いまだに私にはよく分からない。驚くほかない個々の講師の職人芸に対して、日々畏怖の念を抱いている。

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地域密着を厭う最近の空気に、この塾は無縁だ。親子で塾の卒業生、兄弟みんな塾生、いとこの紹介で、など、昔話に聞く「ムラ社会」がここに生きている。経営者やベテラン講師、あるいは元卒業生の同僚にとって、これらの濃密な人間関係を正確に把握することは、経営的にも精神衛生的にも、きわめて重要なことである。私が極力遠ざけて生きてきた、情実・コネ・癒着・馴れ合い……こそが、開かれているようで閉じているこの地域での企業の成否を左右するようだ。

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社長夫妻が私を雇ってくれた。面接と模擬授業で即決であった(それはいつものことだ)が、その直後、私は例の病気でひと月半の入院、そして半月のリハビリ、仕事につくことが出来なかった。その間にも、LINE を通じて、病気のあらましや体調、治療の方針、回復の程度などをコンスタントに連絡してはいたが、私は九割方、仕事に戻ることをあきらめていた。立てない、歩けない、目がよく見えない、字が書けない、そのような状況下では、見るものはすべて夢に過ぎない。

長い入院中も、塾が再求人を出していないことに、私は不思議の念を抱いていた。退院し、契約こそ非常勤に変更してもらったが、私はこの塾に戻り働いている。社長夫妻もどの講師も、わざとらしくない、各々の性格に合うかたちで、私の身体と生活を気遣ってくれる。週1日(4時間)の勤務から徐々に増やして、いまは週4日(24時間)の勤務である。メイン講師のサポートのコマもあれば、普通にメイン講師として授業もやる。質問対応、模試の採点、基本業務にも、少しずつはまっている。あの日々ののち、自分が働いて賃金を頂けている今のこの現実の方が、何の希望の欠片も見いだせなかった遠いあの入院生活より、はるかに夢のようだ。

社長夫妻は、数年内の引退を決めていた。私を経営の後継者に擬しての採用だったことを、直接に聞いた。そして、私が厄介な不治の病気のキャリアーになった今なお、その気持ちは変わっていないことも。

そうであれば、だからこそ、私には、久々にちゃんとごまかさずに考えねばならないことがごまんとある。

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改めて、なにも語らず、文字通り必死の思いでひと月を送った。身体は痛い、明日は大丈夫だろうか、不安と恐怖。なべて噛み殺した。


民家に多数の生徒が往来する。宿題チェック、パーソナルな出来の把握、配布物の授受で、予備校では考えられないほど歩き回る。狭い机間を、足を引きずりながらやっとのことですり抜ける。業務のなかで、階段を日に何十往復も繰り返す。
これを、耐えながら行ってきた。だが、どうしても身体が利いてくれない時もある。
それでも行ってきた。

健常者が一から十まで作ったビジネスモデルのなかで、障害者・病者がはたらくことが、そのモデルに異を唱えることなく、従順に殉ずることに他ならないのならば、それは単に無理筋だ。どの時点かで、Sorry, but I can't のカードは切らねばならない。それを実践に移すアイディアならば、いくつもある。「これまでは」講師が動いていたのだから、は、「これからも」講師が動かなければならない、を決して意味しないはずだ。

そのために、私はひと月、耐えてみた。

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数ある転職候補から、私が町外れのこの塾を選んだのは、まさにここが、私が「耕したい」土地だったからだ。前にこの街に住んではたらいていた頃、この街には、今もある程度はっきりとした「棲み分け」があることを知った。私が執念でこの仕事をやり続けるのは、ひとえに、知の平等分配に寄与するためだ。反吐の出るような『文化的再生産』のチェーンを、少なくとも私の通った道でだけは、ズタズタに截ち切るためだ。1本数十円の鉛筆と、1冊数百円のテキストが、使いようによっては、どれだけ広大で肥沃な culture を拓いてくれるかを、子どもが自らの身で感じてくれる、その肥やしとなるためだ。

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そして、率直に言えば、当の進学実績は下がってきている。様々なファクタはあろうが、私は、子どもの学力が伸びないのは、何から何まで例外なく、教育担当者の責任と信じている。(講師室で生徒の悪評を語る講師が、新人の頃から、私の最大の軽蔑の的であった。)

私がこの村の観察者に留まる限りは、それは私の感知しない問題だ。こうだからこうなのだ、という必然的因果律のみを描写すればよい。しかし、私がインサイダーになるのであれば、(少なくとも私の専門科目に関しては)、いつかは断言せねばならない、「それはたぶん、ちょっと違う」と。(今回の稿は、私の教育観については書かないと決めているので、単に覚悟をメモするに留める。)

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そして、この雇用形態こそが、あらゆるアップデート、あらゆるイノベーションを阻害している主要因となっているのは明白だ。専任の会計担当を置かないのは、経営者の過去の苦汁からのポリシーであると聞いた。これまで講師が金銭管理を担当する世界にいたことがなく、なかなか慣れはしないが、にしても、それは畢竟慣れの問題なのだろうと感じる。

「できるはずがない」を何とかして「できる」に変えてきた、各講師の血のにじむような努力と試行錯誤には、純粋に頭が下がる。学ぶことも実に多い。盗めるスキルもたくさんあるだろう。いずれ大事なことは、
「私には、身体の都合上、それはまったくできません」
というどうしようもない事実なのだ。

どの講師に話を聞いても、このモデルに希望や伸び代を感じてはいない。文字通り、毎日を『何とかやってゆくこと』 manage-ment に終始しているように見えるし、実際そうなのだと吐息している。自らの希望も伸び代もないと当事者が感じる組織が、子どもの希望と伸び代を生み出せるはずがない。事は単純な話なのだ。

1人当たりの業務量と職掌を削らねばならない。

そのためには、「生徒(と塾生維持)のためなら何でもする」という、献身に基づいた土着的なビジネスモデルから脱却しなければならない。

そのためには、「生徒を来させる」のではなく、「生徒が自発的に来てしまう」場にせねばならない。

そのためには、講師が徹底的に指導力を向上しなければならない。

そのためには、ひとりひとりが、子どもにとって教育を授かるとはどのような武器になるか、を考え詰めなければならない。


そのためには、1人当たりの業務量と職掌を削らねばならない。

そのためには、やや余剰に感じるくらいの労働力を確保しなければならない。

そのためには、人件費のサープラスを補完するだけの収益を上げるモデルに転換せねばならない。

そのためには、学費の安さで大手に対抗するのではなく、学生講師ふぜいに負けないだけの質を売らねばならない。

そのためには、講師が徹底的に指導力を向上しなければならない。

そのためには、ひとりひとりが、子どもにとって教育を授かるとはどのような武器になるか、を考え詰めなければならない。

道筋は幾度も変われど、根幹の信念は、18の時から笑えるほど変わらないものだ。
「先に生まれただけで先生って呼ばれて、アグラかいてんじゃねえよ」と啖呵を切って社員を泣かせた青臭い大学生が、いまは社員になっちゃいました。

閑話休題。

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それにしても、長年、地場で経営を続けることで勝ち取った組織の「信頼」は、いくら積んでも金では買えない。とてつもない財産だと痛感する。だから、諸刃の剣なのだ。

私は、小学生の時から、兄弟を知っているだの教えたことがあるだのと、特定の生徒と距離を近づける教師が、アホ臭くて大嫌いだった。だからどうした、に尽きる。そういう姑息な関係構成しかできないから、君はまともな教師になれないのだよ、とさえ思っていた節がある。兄弟を教えることは、確かにいくばくかの感慨はある。だが、それは所詮こっちの感慨だ。教室に持ち込むな。なぜだか知らん、これはかなり強い感情だ。

つまり、こうなのだろう。教室の外は、情実とコネと癒着と慣れ合いに満ち満ちた、ご存知の通りの世の中だ。教室でくらいは、学問という武器、それに向き合う姿勢だけで事を評価する聖域にしたい、それを可能にするのは、他ならぬ教師だけなのだ、と。また、敢えてブルデューになぞらえれば、上の兄弟姉妹の有無もまた、本人の関知しない、忌まわしき『文化資本』なのだ、と。

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文字面を眺めれば、えらく攻撃的なようだが、このようなイレギュラー極まる状態にもかかわらず、社長夫妻は私を変わらず雇ってくれた。私を含めた誰ひとり、私が雇い止めになる事態以外、想像してはいなかった。私がその立場なら、間違いなく出来ない選択だ。

純粋に、その好意に応えたいのだ。厳しく限りある体力、もう頭はあまり使いたくないと思っていたが、私がもっとも誠実にその好意に応える術とは――それをひと月かけて探り続けた――、私がナチュラルにはたらけるこの塾はどのような姿かを、考えることを放棄せず、虚心に伝え、それを実現しようと努めることなのだと思う。

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相変わらず、いや前以上に、先のことなど分からない。いずれ分からないと分かり切っているから、いま/ここにすべてを賭けて生きていることが、とにかく、楽しいのです。

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体調はよくない。明日の病院で、たぶん薬の再増量を処方されるだろう。
よかったり、悪かったり、この病気は、ほんとうに人生にそっくり。

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