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批評 sketch

詩は――むろんぼくにも何一つ分かっちゃいないのだが――「言」を「土」のしたに「一寸(ちょっと)」置いて――つまりは埋めて 葬って 腐敗させ分解のままに任せ――そしてそこに堪(た)え残った、そのような言葉だ、といったある先達を、このような時代だからこそ、ぼくは頓(とみ)に思うのだ。
――目黒寛人「アガサ・クリスティの虚無」

かれはいくぶん韜晦しつつも含蓄ありげにそう語る。にもかかわらず、「詩」とはたかが漢字であり、これは文化依存的な言葉遊びである。ひとつの理はあろうが、それは poetry を包摂せず、うたを排除する。アナロジーは精緻な隘路をどこまで行こうと、そういうことだ、それがアナロジーだ。

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言葉遊び。遊び の何がまずいか。All work and no play makes Jack a dull boy. 大いに遊ぶのがよい。違う。Work が play の補集合であるような世界は、疾うの昔に消え去れり、Work ヲ play スル 或いは play ヲ work スル 事態がそこかしこに手ぐすね引いて待ち構える世界が、砂埃と干草の匂いを纏った Dull Jack ごと、ひとつの比喩をまたもや無化する。

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様々の加点ポイントを stimulate しますように。お眼鏡に叶いますように。好かれたいわね、すうはいされてもみたい。思うのはある種の本能、だけどそれはいかにも微笑ましい。わたしはほとんどいつも微笑んでいるらしい。

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(ことばそのものがそれであるにも拘わらず)定義を、(にも拘わらず)精緻化を、(にも拘わらず)排除と醇化を、(にも拘わらず)夜郎自大と神々の闘争を横目に過ぎながら、軽やかにしかし確実に、場当たりにしかし周到に、ものに即いてものそのものを書き続けること。そんなことが、人間ふぜいに可能だろうか。長らく書かないわたしは、そのようなことを――耳鳴りのように――考えてみる。

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なに、それはとても簡単で純粋なことなのだ。こと書くという営みにおいて、あらゆる形骸は明日のわたしをいくらも救わないし、昨日のわたしをいくらも弔わない。それだけだ。救うとは、肯定でも否定でもない、《得体の知れなさ》を提示し続けること。弔うとは、賛辞でも罵言でもない、《退っ引きならなさ》を描写し続けること。書かれたそこから、尚もそれは定義である、そのような場において、語る事は真に恥ずかしい行為だ。

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このように、何度も何度も厭かず懲りずにスタートラインを引き直す work があったとて、何ら構わない。誰かが引くから、誰かがそこに立ちやがて走る。いつかわたしが走らぬとも限らない。いつか走らぬとも限らないわたしが走るとき、それは work だろうか play だろうか。

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わたしは批評の人である。わたしは書かれぬ批評を際限なく繰り返す手練である。この文章がひとつの大きな批評であり、ひとつの稚拙なアナロジーである。わたしがそのようにしか出来ない事態は、わたしが全身型重症筋無力症でしか生きられない事態と変わらない。あなたの目尻の下がり方など褒めても腐しても仕方ないではないか。わたしがあなたを見るとき、わたしの焦点は、たとえば換金されることなく灰燼に帰した3等宝くじやら、杉谷善住坊のちぎれかけた首筋やら、三角ネットのなかのスコーンの切れ端やら、そのような処に据わっている。

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「三角ネットのなかのスコーンの切れ端から見たあなた」を sketch する。あほくさいにも程がある。それならば、あほくさいものは果たして、そのあほくささに比例して尊くない、とでもいうのか?

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なかなかよい文章です。

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