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はぐれメタルのような

だいたいの人は、それぞれお気に入りの色眼鏡を掛けて、たまに色眼鏡を外してみようと思っても、却ってさらなる色眼鏡を掛けたりして、そうでないと眩しすぎる複雑な世界に、起き歩き走り眠るのだろうなあ、と見える。そうでもしなければ、手に負えない物質と、さらに手に負えない精神の営みを、五十音やら26文字やらの組み合わせに収斂させられる、収斂させよう! なんて、思いつきもしないもの。

色眼鏡というのは、もちろん、ある状態を物質に置換した、大味な比喩に過ぎないので、自身が掛けている色眼鏡を an sich に知る術は絶たれている。同一事象に対する認識の差異としてのみ、その「色」の差異は感知される。私に合うマッサージが、他の誰かには合わないような事なので、そこに正否などありはしない。そこから不和や敵意へと転がり落ちる精緻なプロセスをこそ、私は『文明』と呼びたいようなものだが、喧嘩は江戸の華だし、戦争は政治の延長だそうなので、そのような祈願も、やはりひとつの particular な色眼鏡なのだろうね。

無知の知、のプロデューサーをずっと好きなのだけど、無知というと ignorance; not knowing に嵌るから分かりにくいんじゃないかと思う。Zu den Sachen selbst 事象それ自体へ という現象学のスローガンは、あらゆる色眼鏡の存在を前提した所に初めて成立した(少なくとも、この星ではそのような在り様でありました)フィクションとしての裸眼なので、ソクラテスがもやっと伝えたいのはいつだって、
あなたは、あなたの色眼鏡を掛けている
という一事に尽きたのであろうし、それは、智識と弁舌を磨く、という足し算の方術では、いかんともし難いことであったのだろう。

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学識や地位や肩書きや名誉やなんや、そことは違う所で闘ってきたつもりだったが、闘ってきたというこの疲労感は、たぶん、マハトマ・ガンディーの「戦わないという闘い」に近いもので、それも各々方の comfortable な解釈に委ねられざるを得ない、そのように、私たちの無差別級キャッチボール大会は、できているのです。これだけ長期間、ことばで思うところを語らず、井戸の底から、腐敗だか熟成だか分からんまま let thought be thought していたことで、非常に大事な何かをはじめて手に入れたのですが、それはあるいは、
色眼鏡の諸相
についての、えも言われない愛情、のようなものかも知れない。

色眼鏡を、手放しに愛せるかもしれないという、仄かな予感は、人間を憎まずに生きてゆくことができるかもしれない、ささやかな福音で。

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バブルスライムだか、はぐれメタルだか、分かりはしませんよ。

分からなくていいのです。分からないのだから。

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