Sketch

ことばの本質とは、思念の反作用なのではないかと、そのようなことを長く思っていたのだが、はたしてそれが普遍的な真実なのか、あるいはわたしという一個体における特性なのか。
それを検証するためにのみ、わたしは人と語ろうとしているらしい。

多くの人とことばを交わす、そして彼の姿と彼のことばとの距離を推し量る。やがてわたしは、その程度を「根を張っている」、「地に着いている」、「浮わついている」、「浮かんでいる」、「散っている」などの私的な形容で認識していることに気づいた。

思念、感受、情動を、その原型を多く保ったことばに出す者もいる。まるっきり正反対のことばを吐く者もいる。
人々のことばはたいてい、その両端を結ぶ線分のどこかに位置しているようだ。

その結果を踏まえ、あらためて自身の煩わしい特性に向き合った。
すなわち、わたしの思念に対し、わたしのことばは「浮かんでいる」 floating 、あるいは「散っている」scattering と分析した。

そのような、わたしにおけることばと衷心の乖離、むしろ背反とは、ことばを「いま在る姿を描写する」ための道具としてではなく、「こうではない理想、ヴィジョンを宣言する」ための媒体として規定している、わたし個人の捻れた認知に由来する、こう思うようになった。

描写、叙述、感想、ということばの「一次的な」作用に背を向け、もっぱら目標、展望、理念、など「二次的な」用法に傾いているのは、遺伝的本性的な傾向なのか、後天的付随的な獲得なのか、それはもちろん藪の中であり、突っつけばアオダイショウが鎌首をもたげる。

ただ、過去を顧みるに、わたしが「いま在る」わたしを語る機会、その語りをなにがしか価値のあるものとされる機会は、極めて少なかった。
わたしはいつも、未来を、野望を、成長の展望を、語ることを求められていたと感じる。

わたしの心の中には絶えず、『打倒、……学校!』やら、『……絶対合格!』やら、あの手の右上がりのスローガンがべたべたと貼られていた/いる。
それゆえ、わたしのことばは、そのような心象にフィットするよう適応したと思うことができる。

この歳になれば、自身の在りようを、何と皮相的で軽薄なことか、まるで中身を磨き忘れた生き様だ、と突き放して見られないこともない。

いまを肯定する、より正確にはいまを諾とする、そのような mentally healthy な作業は、わたしにはとんと無縁であった。
いまを批判し、糾弾し、否定し、絞り出した空意地のマニフェストが、わたしのことばの本性だ。

雪の中に雪を見ず、花を見る。花の中に花を見ず、日照りを見る。

だからわたしは、雪を雪として、花を花として素直に眺め、それをことばに下ろすこと、そのような人を羨み、ひどく反撥し、躍起に否む悪癖から逃れられない。

その事実を――もちろん上のように自覚的に明確なことばでではないが――分かりはじめたころから、わたしは書くことが厭になった。同時に、話すことも読むことも、やけに面倒になった。

いまも厭なのである。

――ことばの本質とは、思念の反作用なのではないか
本当に厭なのかどうか、とにかくわたしは疑心のかたまりである。

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