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解毒

生身が生きるのは、なんとうっとうしいことか。好かれるのも、厭われるのも。珍重されるのも、軽侮されるのも。
存在をいくつものスペックのパラメータに分割され、その上で距離を測られることは、疲労し消耗する。

しかしまた、生身が疲労し消耗しながら生きるのでなければ、決して満たすことができない一種の秘孔が、わたしにはあるので、どんなに現実に打ちのめされようとも、またおめおめと『最前線』に戻ってしまうのだった。

生きることは疲れる、とは、その謂いなのだろう。
しなくてよいことほど、しなくてはならないことだ――この逆説は、わたしにとって仕事の根幹にある敏感な神経叢に激しく触れるものである。

翻って。

書く営みは、わたしには清潔で、ノイズに妨げられない場において在る。そこでわたしは、しばし「見られる」という鬱屈と興奮から解放され、しんしんと降る雪の遥か向こう、幽かに列車の警笛が鳴るを聞く、ちょうどそのような趣で、ことばの軋みを静かに聴く。

ここは前線ではない。
あたたかく、やわらかく、守られている場だ。
浮世と激しく切り結ぶ自己反省、数字と背中合わせでしかない自己実現、おべっか、怒りのポーズ、駆け引き、うそ寒い慰藉、そのような腐りかけた生臭さとは、しばし無縁だ。

そうして、降り積む雪のかなたに警笛は融け、沈黙の音のなかで、この世における「教育の無力」と向き合う。

どうしようもないほど強力な、この無意味の磁場におめおめとは取り込まれないために、ときおりわたしは、この清潔で innocent なフィールドに来て、よたよたと、かく頼りない足跡を遺すのである。

――You can hear the whistle blow a hundred miles.

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