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壁としての肉体

酔っ払ったこの人は、いま話すべきことではなくて、聞いてほしいことを話しているだけだった。

わざわざ東京まで来て、会話の流れも何もない。
私は話を聞きながら、自分の顔の筋肉が弛緩しているのを感じた。和やかな雰囲気から表情が和らいでいるわけではない。この人にはもう一生懸命私の仮面を維持する必要がないと思ったのだ。

店内には落ち着いた音楽が流れている。
この店は私が指定した。マッチングアプリで誘った男性を「行ってみたいお店がある」と言って連れてくる。紹介料として、飲み食いしたお金のいくらかをもらっていた。

「俺はさ、言ってやったの。目的もなくプロジェクトを始めたって、うまくいくわけないんだって」
妻にも聞いてもらえないのだろう。出張の日に合わせて、私との夜を迎えた。
わざわざマッチングアプリで、嘘のイケメンの写真を登録して話を聞いてもらっている。

別に写真と別人が来ることは慣れているしなんとも思わない。私は酒が飲めればいい。肉が食べられればいい。そして紹介料がもらえればいい。
あとは明日早いからと言ってサッと逃げるように帰るだけだ。一緒に部屋へとしつこく誘われるのを、結論が決まっているのに、断らないといけないのに無駄な労力が必要だし。

私の容姿は目の前のハゲ親父を饒舌にするためだけに作用していて、私の肉体は声を通過させるための壁だった。話は聞いていないから、壁や人形に話しかけるのと幾らも変わらない。でも「誰かがたしかに聞いてくれている」という感覚が大切なのかもしれない。

必死の形相で自分の判断の正しさを訴える目の前の男性。

私はただ向かいから唾が飛んでこないかだけが気掛かりった。

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