見出し画像

堀江和真「イメージを置く」シリーズに見る二つの装飾性

------------------
このテキストは、2023年9月に「作家がみた別府実行委員」主催でドマコモンズにて行われた、作家、堀江和真氏のトークイベント・展示会のカタログのために執筆したものです。
氏の近年のシリーズ「イメージを置く」について、解説しています。
------------------
文/足立真輝

「あら、可愛いじゃない」
その次の瞬間には外方を向かれても、そのままずっとそこに張り付きながら、このささやかな働きを誰にも注目されることなく日々の背景に溶けていく。
例えば冷蔵庫の扉に散りばめられ、黄変したマグネットたちのように、我々の日々視界に入る無頓着な光景はいつのまに出来上がってしまうのだろう。
それらは無頓着ではあるが、それゆえに日々の切実な繰り返し、積み重ねを代弁する名もなき冷蔵庫の神々だと言ったら大袈裟だろうか。
それは時に不幸な結果を導き出した家族の背景に映り込む、貧しく禍々しいレギオンに見えてしまうこともあるかもしれない、しかし私たちの日常風景の隠れた象徴になっているそれらを無下に捨てられないのも確かだろう。

こんなキャラクターたちが大昔に居たような気がする、そして改めて見るとどれも愛らしく懐かしくなる。そんなファンシーなキャラクターを堀江はよく描いている。そのモチーフの多くは、彼が常に持ち歩くノートに日々蓄積され、そこから召喚されるものが多い。
授業に退屈する子供のように、彼は生活の隙間で「落書き」をする。それらはどれもはっきりとした輪郭を持ったハードラインの丁寧な素描だが、しかしどことなく遠慮がちな雰囲気が、観るものを圧迫しない。

今回の作品はそれらがマグネットになって登場する。画家がキャンバスから脱するように、キッチュでファンシーなマグネットが冷蔵庫以外の居場所を探し始めたら、それはもう現代アートの始まりだ。

堀江は絵画という行為を敢えて淡白な構造に還元する。彼は自身の仕事について「時間」「行為」「物質」に「ボク(堀江和真)」を掛けたものが作品だと定義し、行為を行う作家自身を含めた絵画の再構築によって身を持って提示し続けている。そして出力された作品たちの多くは平面的な操作に留まらない。

本作品「イメージを置く」では、「描く」という行為を「置く」と言い換え、その認識の変換を基に自身が創り出すイメージを配置して行く。

このシリーズは、二段階のイメージの配置が行われる。まず磁石の貼られた大量のプラスチックの板に、彼のノートに沈殿したファンシーなキャラクターやそれに付随するようなドローイングが強い色をもって描かれる。そしてその出来上がった大量のマグネットは、支持体となる鉄性のレディメイドを覆い尽くす植物のように貼り付けられる。

それらは磁石でくっついているため、もちろん分離可能だ、そしてマグネット一つ一つは特定のオブジェクトにくっつける為に造形されるわけではない。堀江の琴線に触れる金属であればどこでもくっつけられて作品になってしまう。これは装飾物それ自体の造形と、装飾される先の関係に近いかもしれない。モチーフを一旦ノートにストックするなど、彼は制作のプロセスの中にある、自立した行為たちとの関係性においてコンセプトを実現させようとしているのではないか。それらの行為が今回のシリーズ「イメージを置く」にて装飾性として鮮明に図式化されたことで、彼の作品制作の背景にある世界観を捉える手がかりが見えてきたように思う。

その為にはまずこの「装飾性」というものを一旦「デコラティブ」と「オーナメンタル」の二つのパターンに分別してみるとわかりやすいだろう。

「オーナメンタル」とは、装飾として一つ一つを自立したモチーフとして認識することができる。対象の象徴性を補完する為に、その文脈に則った複数個のアイテムであり、それらは世の中にある既存の造形を模したものである。例えばクリスマスツリーに吊るす、サンタクロースやキャンディ、靴下を模したもの、教会建築や寺社仏閣の壁面に施された幻獣、植物や聖人の彫刻などがそれに当たる。それらは祝祭の場において、特定の大元となる象徴物にインストールされることで物語とその世界観を共有し、その権威性を誇示する為のものであることが多い。

一方「デコラティブ」とは、対象にとって機能的な要請の無い装飾行為であるとしよう。またそれはしばしばその使用者が、長期的に対象を使用する上で、その形態的な退屈さを取り繕うように行われる。それは時に強迫観念的に映り、その反復的な性質から、創作行為自体に祈念性を持って捉えられることも少なくない。

この作品に対応させると、「オーナメンタルなモチーフをデコラティブに装飾している」と言えるのではないか。そのデコラティブ、つまりデコレーションの方には可変性があって、誰もが自由に配置を変更できる。そして磁石がくっつくものであれば、どんなオブジェクトにも彼らを自由に引っ越しさせることができる。堀江はそのような許容力の高い世界観を私たちに提供してくれている。

西洋的な感性で捉えれば信仰の対象にならないようなものにも神々は宿り、私たちの日々を静かに見つめ続けている。キッチュと呼ばれるような様相を意識的に取り入れるのは、そのようなアニミズムが彼の背景にあるからかもしれない。そして日本人の意識に備わった八百万の神々がどのように実存してきたかを図らずも呈示してしまっているようにも感じるのだ。

ただ一方で、「なんか知らないけど居るんだよね」といった具合に彼は自身のノートに描かれるモチーフと日々の隙間に戯れながらも、そのモチーフ達に居場所を与えた後は、それほど熱心に対峙し続けるべき存在としてでなく、日々視界に入りながらも思考が及ばない冷蔵庫のマグネットのような距離感を、意識的に保持し続けているように思う。大切なのはそれらの存在を無理なく許容する環境を展開し続ける事なのかもしれない。
だから彼等はここぞという時、堀江がお願いすれば少し融通をきかせてくれたりもする。そんなアートの神々たちとの相互の信頼関係が、制作を通して日々積み重ねられているのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?