『東洋弓道基鑒 巻上』の考察〜ウィリアム・アッカーの弓道史〜

ウィリアム・アッカー(William R. B. Acker;1907~1974)は戦前の日本において弓道を修めた稀有な外国人弓道家である。4年間の修行を経た1937年にアッカーは師の那須容和とともに『東洋弓道基鑒 巻上(とうようきゅうどうきかん かんじょう』(英語題 ”The Fundamentals of Japanese Archery” )という英語の弓道書を著している。

オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』が名著として読み継がれている一方、アッカーと那須の弓道書は忘れられた書籍といっていい。結論から言えばその理由は、内容が平易で面白みに欠けるからであろう。『弓と禅』が今でも書店に並ぶのは、読者が求める哲学、神秘、あるいは日本人好みの「海外で評価されたニッポン」があるからだ。近年ではapple創業者「スティーブ・ジョブズの愛読書」という帯がカバーに付くこともあった。もはや弓とは何ら関係のない帯が付き、経営学の書籍のような扱いで再版されている。

『東洋弓道基鑒 巻上』についてなにより注目すべき点はその先駆性だ。本書は日本語のタイトルだが那須の序文を除いて内容はすべて英語で書かれている。戦前に出版された英文による弓道の書籍であり、それ自体が非常に珍しいものである。同書の存在は弓道史研究において重要視されてこなかったが、しかし日本国内で出版された弓道の外国語文献として本書は根矢鹿児の『英文 弓の手ほとき』に続き二例目となる。戦前の弓道史を知る上で貴重な資料の一つだ。

本書は山田奨治氏の先行研究の『昭和初期の米国人弓道家ウィリアム・アッカーについて』が知られている。山田氏の研究はアッカーの略歴を詳細に示し、滞在史をほとんど網羅している。そのため本稿では『東洋弓道基鑒 巻上』に示されているアッカーの師の那須容和との出会いや、アッカーを取り巻く当時の練習環境、同書に内在するアッカーの審美眼について考察したい。途中には筆者がおこなった那須容和のご子息のインタビューも掲載している。

なお『東洋弓道基鑒 巻上』は1965年のアッカーの単著として再出版されているが、いずれも日本語訳がないため本稿では私訳を掲載する。

1.ウィリアム・アッカーの略歴

ウィリアム・R・B・アッカーは1907年10月17日、アメリカのニューヨーク市に生まれ、学生時代はハーバード大で中国学(シノロジー)を専攻している。大学卒業後はワシントンD.C.にあるスミソニアン研究所フリーアー美術館の研究職となった。その間、ドイツのライデン大学に留学し中国学の学位を取得している。1933年から37年の4年間、フリーアー美術館の転属で京都帝国大学の研究員として日本に滞在して東洋美術研究を行った。アッカーは中国語−英語、日本語−英語の翻訳に堪能であり、彼の著作物は全て翻訳書となっている。

・1943年の”The wall-paintings of Hōryūji
(「法隆寺壁画の研究」)”
・1952年の”T’ao the hermit : sixty poems by T'ao Ch’ien
(「隠遁者 陶:陶淵明の60首の詩」)”
・1954年の”Some T'ang and Pre-T'ang Texts on Chinese Painting
(「唐と前唐時代の中国絵画に見られる字句」)”

このうち「法隆寺壁画の研究」は美術史家の内藤藤一郎の著作を翻訳したものであり、後の二冊も翻訳書に分類される。著作物から分かるように、アッカーは日本や中国の古典・芸術・詩学の翻訳を得意としていた。

アッカーは最終的には博士号を取得した研究者であり、当時としてはおそらく極めて珍しかったであろう、漢字を理解し中国や日本の古典を英語に翻訳することが出来るアメリカ人であった。アッカーは1933年の2月に来日し、京都北白川にある東方文化学院(今の京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)に派遣されている。どのような身分であったのかは分からないが、フリーア美術館のアートディレクターであったジョン・ロッジ(John Ellerton Lodge,1876-1942)との定時的な連絡の手紙も残っているため、おそらく研究者として今で言うサバティカルであったと思われる。なお山田氏の研究では1943~1945年にかけてアッカーは戦争情報局の任務で日本のラジオ放送傍受と分析にあたっていた、とされており大戦中はいわゆる諜報員であった。

話を弓道に戻すと、『東洋弓道基鑒 巻上』の記述によれば、アッカーはもともと母国アメリカでロングボウの愛好家だった。来日してほどなくして京都の武徳殿を訪れ、そこで偶然出会った那須容和(なすようわ)に師事し弓道を学んでいる。アッカーと那須は一連の射技指導について英語のハンドブックを作成し、アッカーの滞在最終年の1937年に一冊の本にまとめている。それが『東洋弓道基鑒 巻上』である。

2.書誌について

まずは『東洋弓道基鑒 巻上』の奥付に記載された書誌について考察しよう。

昭和12年10月10日 印刷
昭和12年10月17日 発行
【非売品】
著 者 京都市上京区椹木町烏丸西 那須容和
著 者 京都市上京区出雲路松下町 阿伽惟廉
印刷者 京都市中京区錦小路烏丸東入 鈴木尚美社
発行所 京都市上京区出雲路松下町 梓椶舎

『東洋弓道基鑒 巻上』の奥付

『東洋弓道基鑒 巻上』はアッカーの手書き英文を謄写印刷(ガリ版刷り)して和装綴じをしている。しかし外国書のように横書きであるため、通常の和装本とは反対の正面左に背があり、右から左に頁をめくる珍しい装丁である。山田氏の調査によると同書の発行部数は250部とされる。奥付では「非売品」ということわりをしているが、その割に250部は数としては多い印象である。日本の弓道家や帰国後にロングボウ仲間などに配布したようで現存は4冊とされる。

本書の版元の梓椶舎(あずさあららぎかい)の住所は後述するアッカーの弓道場と同じ場所だが、命名は和弓とロングボウの素材にそれぞれ梓(あずさ)とアララギ(セイヨウイチイ)が用いられた故事に基づいていると思われる(椶の正しい旁は”凶”ではなく”田”)。

奥付のウィリアム・アッカーの名前は「阿伽惟廉」という漢字が充てられているが、「阿伽(あか)」は仏前に供える清水のことをいう。「惟廉」は中国明時代の古典『菜根譚』の一節「惟廉則生威」、「ただ廉なれば(潔ければ)則ち威を生ず」から採られたものと思われる。

アッカーと那須の共著の本書は1965年に”Kyudo The Art of Japanese Archery”(「弓道:和弓の技法」)として活字に改められて再出版された。那須の日本語序文が除かれ、アッカーの単著という扱いになっているが本文の内容はほぼ同じである。

1965年版では削除されている那須容和の日本語序文は当時を伝える貴重な資料の一つである。那須は「大日本武徳会外人指導係」という肩書きで署名をしており、アッカーの後見人的な役割をしていたことが伺える。序文では、弓道段位を取得した最初の外国人はウィリアム・アッカーであることなどが述べられている。そこには「近ク下巻ヲ刊行し奥儀ヲ完了スルモノナリ」とも記されているが、上巻の出版直後にアッカーはアメリカに帰国しており、結局下巻が出版されることはなかった。

なおアッカーは晩年ベルギーに移住しているが、本書はオランダ弓道連盟のTheo Van Vliet氏がインターネット上で全文を公開している。Theo氏は個人的にアッカーの家族と交流があったようである。

3.那須容和の人物像とご子息のインタビュー

那須容和(ナス トシスケ)は1901年4月の生まれで、京都洛西にある御室仁和寺の華道教授を務めている。1963年に全日本弓道連盟の教士、76年に八段に昇格し、78年11月9日に77歳で没している(『弓道人名大事典』より)。那須は龍谷大学と佛教大学の弓道部師範を務め、小林治道(紫山)、十九代柴田勘十郎に師事し日置流竹林派を学び、昭和の中頃まで三十三間堂の軒下で通し矢の稽古もおこなっている。現在、三十三間堂の拝観路の終端では通し矢用の弓矢の展示を見ることができるが、それらの弓具一式は那須容和の寄進によるものである。なお『現代弓道講座第3巻』の178頁には、射手の真後ろで介添えとして矢を渡す那須の写真が掲載されている。

那須は英語を喋らなかったが、アッカーが日本語を話せたためコミュニケーションに困難はなかったようである。那須は戦後に”A Syllabus on Japanese Archery(「弓道概説」)”という英文の小冊子を刊行している。「弓道概説」も弓道を外国人に指南するための英語ガイドで、こちらはBetty Hornishという人物が英訳を担っている。

なお容和の名前の読みについて『東洋弓道基鑒 巻上』では「トシスケ(Toshisuke)」としている。那須容和のご子息の資房(すけふさ)さんは現在でも京都市に居住しており、容和が住んだ家を受け継いでいる。ご本人に確認をしたところ、名前の読みについては「ヨウワ、ヨリカズとも言うが、戸籍上はトシスケ」とのことであった。なお、那須の存命中に指導を受けた人の話では那須は自らを紹介する際は「ナス ヨウワ」と名乗っていたようである。

『東洋弓道基鑒 巻上』が書かれた当時、那須はアッカー婦人には華道を指南している。終戦後は今の京都府立植物園にあったアメリカン・スクールで弓道と華道を教えている。滋賀県の大津キャンプ(進駐軍宿舎)のクラブ活動の指導にもあたっていたらしい。面倒見のよい人物で佛教大学や龍谷大学の稽古後には、学生を自宅に招いて夕食を振る舞うということもよくあったそうだ。以下はご子息の資房さんに実際に筆者がお話を伺ったときのインタビューの要約である。

ボクの父親はよく学生さんたちをうちに連れて来たよ。とくに佛教大学の弓道部の生徒さんはまあ京都に来て苦労している子たちが多かったからね。練習が終わったら皆んなを引き連れて来て、よくうちの家で夕飯を食べてるんだよ。そしたら気づいたらボクのご飯が残ってなかったりする。そりゃ涙が出たよ。学生らもボクらもみんな同い年くらいのときだったかなぁ。

父からはよく、弓引かないか?と誘われたよ。お小遣いをやるからと。だけどボクは弓はやらんかったなあ。父が亡くなったら弓矢もみんな処分してしまって。その代わりというかうちの父親は、死ぬまでの毎日(語気を強めて)雨が降ろうが槍が降ろうが、二階の物干しに巻藁を置いて弓の練習をしとった。体を悪ろうして、入退院を繰り返している時でも型の稽古をしとったんよ。ボクが家を空けているときに、やめろと言ったのに物干しに出てこっそりやってるんだ。体を悪くした後も学生の合宿にも苦しくても毎回ついていった。今考えればそれが死を早めたんかなあ。

父は波に乗るということをしない不器用な人だった。田んぼを一から耕すように、なんでもかでも最初からやるひとだったんだ。弓もある程度出来上がった人たちがいるやろ。高校とかでやっててさ。そういう人を教えるのやなしに、弓道部を作って一から自分で面倒をみるということをするんだ。弓でも飯でも。まあ、そういう人だったんじゃあないかな。あの時分、弓と華の先生で食っていけたからさ。

アッカーさんと一緒に本を出したことは知っていたけど、その後外国で自分の本ということで父の名前を載せずに再出版したでしょう?そのことは後から人づてに聞いたんだけど、なんだろうなあという気持ちはあったよ。うちには何の連絡もなかったからさ。

2016年2月に那須氏の自宅を訪れた際のインタビュー

前述の通り、アッカーと那須は共著という形で『東洋弓道基鑒 巻上』を出版しているが、1965年の書籍”Kyudo The Art of Japanese Archery”はウィリアム・アッカーの単著という扱いになっている。詳しい経緯は分からないが那須容和の許諾は得ることはしなかった。背景にはアッカーの生活困窮もあったようだ。

アッカーは那須より幾分若かったが、那須より4年早い1974年に67歳で死去している。晩年は不遇であったといわれる。

4.アッカーと那須の出会い

1937年10月に『東洋弓道基鑒 巻上』が執筆されたとき、那須容和は32歳、アッカーは26歳の若さである。弓書を出版するには若すぎる感もあるが、血気盛んな年齢からくる怖いもの知らずが勝ったのかもしれない。

そもそも両者はどのような経緯で出会ったのだろうか。ここからは同書の序文に描かれている二人の出会いの経緯を見てみよう。米国人研究者アッカーと華道と弓を生業とする那須は1933年5月にたまたま京都武徳殿で出会っている。二人の出会いはとてもドラマチックで、阿波とヘリゲルの邂逅に似た、弓道史に残る一場面である。

日本の地に足を踏み入れた時、すでに私の心の中は日本の弓術(the archery of Japan)を学びたい想いに満ちていた。ながらく私は故郷〔訳注:アメリカ〕でイギリスのロングボウを嗜んでいたからだ。日本での最初の数ヶ月間は弓を一切引けない忙しさの内に過ぎていき、平安神宮に隣接する武徳殿へ見学に赴いたのは、その年〔訳注:1933年〕の5月のことであった。4月に私は北京に逗留して、有名な弓箭大院〔訳注:弓師が店を構える通り〕で中国弓を数張購入していた。これが東洋弓術の考察の機縁となり、京都に戻った折には武徳殿を一度訪ねるつもりでいた。

最初に武徳殿を訪れた日、私は道場に入ることを許され、射手が矢を放つさまを座りながら観光客のように見つめていた。私は日本語を話したので、その場でせわしなく質問をしつつも、アメリカの弓術に関して様々に問われることに返答を重ねていた。しかし私が日本の弓を学びたいと申し出たところ、そこには一様に首を振る姿があった。たしかに外国人が挑戦することは出来るが、上達はしないだろうという総意があったように思う。

しかし那須容和という人物が、おそらくは議論を盛り立てようと私に加勢するなり、自分の考えでは日本人や外国人を問わず、必要な知性と忍耐を備えていさえすれば、どんな人物でも稽古を積むことはできるだろうと言った。すぐにその場で那須さんは快く、外国人でも弓道(Japanese archery)は上達すると証明しよう、と翌日から稽古を付けてくれることになった。

『東洋弓道基鑒 巻上』の序文より

アッカーはフリーアー美術館の学芸員として日本に派遣され、自らの研究分野である漢詩の古典研究などにいそしんでいた。アメリカでは余暇にロングボウを嗜んでいた経緯もあり、一度日本の弓道を見学したいという思いがあったようだ。アッカーは1933年2月に京都を初めて訪れ、同年4月に北京に逗留し中国弓を購入している。当時は船しか主要な移動手段がないなか短期間に日中を行き来しており、それなりに多忙な身分であったことが伺われる。中国弓を購っていることからも、和弓にとどまらず広く東洋の弓に興味があったようだ。しかし道具は購入しても結局は引けず仕舞いであり、フラストレーションが溜まっていたようだ。

そんななか遂に1933年5月に弓道場を訪れることが出来た。山田氏の研究によるとこの日は1933年5月20日(土)である。アッカーは当時の武道の総本山である京都武徳殿を訪ねている。アッカーは最初、弓の稽古をおとなしく眺めていたが、やおら弓道を学びたいと申し出る。その態度はまさに図々しく怖いもの知らずで、その活発さと大胆さに道場の人間は一様に面を食らう。こうした反応はオイゲン・ヘリゲルが弓道を学びたいと言ったときも同様である。今日のように海外で弓道が実践されている時代とは異なり。90年の前も日本の話だ。通りを歩いていることも珍しい外国人が突然道場にやってきて、日本語を話し、私も弓道を学びたい、と申し出ても大抵の日本人は困惑したことだろう。アッカーが日本語を話したのにも関わらず取り合ってもらえなかったのは、純粋に言語を理解する能力以外の問題があったことが伺われる。

この点は、阿波研造に師事したオイゲン・ヘリゲルとは異なる点だろう。小町谷操三という海商法の学者がドイツ語の通訳にあたり阿波とヘリゲルの橋渡しをしているが、当初ヘリゲルは日本語を話せないことを問題視され一度は阿波への入門を断られている。

アッカーに日本語の口語的な能力がどの程度であったかは当時の状況から想像するしかないが、少なくとも漢文の古典を翻訳したり、後述のように那須と二人きりで交流している点から考えても通訳は不要だったことは間違いない。

話を道場に戻すと、アッカーの申し出に困惑する日本人を横目に、そこにたまたま居合わせた那須がアッカーの味方をするなり「知性と忍耐(intelligence and patience)」が備わっていれば外国人かどうかは関係ない、と言ってのけるのはなんともドラマチックである。『東洋弓道基鑒 巻上』そのものは平易な解説書であるが、序文の随所から1930年代当時の情景と血気盛んな二人の姿が伝わってくる。(知性と忍耐になにか出典があるのかもしれない)

私たちはほどなくして武徳殿を辞去し、那須さんの家で抹茶を一服し、しばし語らった。それから矢師のもとを訪ねると、彼は私のために矢を注文してくれた。最初は先が尖っていない羽根も付いていない練習用の矢である。彼が言うには、本式の矢で的に射るようになるにはかなりの時間がかかるということであった。

前掲書

那須はその日出会ったアメリカ人をいきなり自宅に招いて、抹茶を点て言葉を交わす。那須が「大日本武徳会外人指導係」という肩書を得た時期は不明であるが、アッカー婦人への華道指南や戦後の大津キャンプの指導員、そして佛教大学や龍谷大学の学生との交流を考えても、その分け隔てなく付き合う人柄が分かる。

5.アッカーの稽古内容について

那須はそれからほぼ毎朝、アッカーが仮住まいをした京都御所の北側にある相国寺の塔頭、普廣院(ふこういん)に通い巻藁稽古を指導している。

那須さんは手初めに弱い弓と巻藁を貸してくれた。〔訳注:巻藁とは〕藁の束を大きな円筒状に締めつけたもので、バスタブに収まるほどの大きさのものもある。それに向かって初心者は4から5フィート〔訳注:1.2~1.5メートル〕の距離を置いて棒矢(a blunt featherless arrow)を用いて、的前用の矢(real arrows)を使用できるほど射形が成熟するまで稽古を積む。

それは過酷な作業だった(It was hard work)。数ヶ月があっという間に過ぎても私はまだ巻藁の前に立っていた。傍らで那須さんが一射一射に自由に講評をして、巻藁に延々と棒矢を射て引き抜く、という作業の繰り返しだ。たまに那須さんが背中に回り込んだと思うと、胴造りがしっかりしているか見るため突然押してくることもある。あるときは何もかもが上手くいかない。またあるときは見違えるように上達したと評される。

徐々に、本当にゆっくりとではあるが、手の内をやわらかく崩さずに保つことを覚えると、離れの時に手に持った弓が回転するような気がした。日に日にその兆候は強くなった。すぐに弦は半円を描くまでになり、外竹が自分に正対するところで止まるようになった。常に那須さんは私が手で弓を回そうとしないよう注視していた。弓返りとはその美しさをもって賞賛されるのではなく、弓手の手の内が正しく整ったときに自然に起こる現象なのである。その時が来るのには更に数ヶ月を要したが、ついに、弦が勢い良く回り手首の外側を叩いた。弓返りが日常的に起きるようになったのである。

前掲書

ロングボウ愛好家であったアッカーは、もしかしたらすぐにでも十五間半という実際の距離で弓を引けると思っていたのかもしれない。それが大きな藁の塊を目の前にして、数メートルも離れていない距離で延々と弓を引くのである。「それは過酷な作業だった(It was hard work)」と音を上げそうになったところに、弓返りの兆しが見えてきたことは一つの励ましであった。

弓道家は誰しも身に覚えがあるだろうが、アッカーもまた弓返りの感動を日本人と同じように共有していたことは興味深い。洋弓の経験者は洋弓射法が抜けきらず、すでに弓の経験があることでかえって和弓の射法に戸惑いを覚えることもあるだろう。しかしアッカーが弓返りをもって自らの上達の目安としていたことからは、彼自身の洋弓家から和弓家へと変貌を遂げようとしていたことが伝わってくる。

那須は那須でアッカーを後ろから小突いて胴造りの緊張感を確認したり、今のは良かった、今のはだめだ、とか言いながら延々と反復練習をさせる。弓道家はとかく観光客や物見遊山の訪問者を相手にすると、良かれと思って的あてを経験させて、射的という以上に客の理解が深まらないこともあるだろう。純粋な射的であれば百発百中で良いが、弓道とは同じ百発百中の二人がいてもそこに優劣を付けたがる価値観のことである。この間、那須がアッカーにどのような精神を説いたのかは言及がない。古くから巻藁三年というが、しかし那須はアッカーを特別扱いすることはなく、日本人と変わらない本格的な指導をしたことは序文からよく伝わってくる。

6.アッカーの個人道場

1933年5月から始まった巻藁稽古は約3ヶ月に渡り、アッカーは結婚のため夏に一時アメリカに帰国し、同年9月に婦人を連れ添って京都に戻っている。アッカーはそれまで仮住まいしていた相国寺を出て、今度は賀茂川沿いの出雲路松ノ下町に一軒家を借りている。

この時点でアッカーは弓歴3〜4ヶ月の初心者だが、彼の弓道熱はますます高まりを見せていく。驚くべきことに、引っ越しを機にアッカーは自宅に弓道場を建てている。道場は「梓椶舎(ししょくしゃ)」と名づけられた。これが本書の版元「梓椶會(あずさあららぎかい)」に通じている。以下はアッカーが自らの弓道場に言及した箇所である。

相国寺の塔頭に6ヶ月住んだのち、わたしは結婚のため短期間アメリカに帰国した。そして日本に戻る際、賀茂川沿いで京都東部に連なる峰の最高峰である比叡山をのぞむ場所に住まいを得た。庭は矢場を整備するのに十分な広さがあった。的を立てるための小屋や、射場用のより大きな建物、その間に砂利道を作る必要があった。日本では弓射(shooting)の大半がこの方法でおこなわれている〔訳注:屋根の下で稽古をする〕。日本人が野原に的を置き青空のもとで引くことは稀であり、狩猟をすることなどはまず考えられない。こうした建物によって弓の試合はより居心地が良いものとなる。もし野外で行われることがあっても、それは天候の心配をする必要がないときである。弓場(yumiba)が完成すると、那須さんと私はさまざまな京都の団体や会から多くの射手を招待して、一種のこけら落としを行った。儀式の初めにまず二本の矢を射るが、私は幸運にも乙矢を的中した。

前掲書

7.アッカーの弓道仲間

アッカーが自宅に道場を持った頃、彼の同僚も稽古に加わるようになった。ライデン大学の後輩でオランダ人のアントニー・ハルセヴィ(Anthony François Paulus Hulsewé,1910~1993)とアメリカ人で日本政治の研究者のチャールズ・ファーズ(Charles Burton Fahs,1908~1990)である。

ハルセヴィは古代中国の漢の法律を専門に研究していた。京都に滞在したのは1934年の暮れから年初までの数ヶ月で、その後はオランダ領東インドのバタビア(今のジャカルタ)に渡り官吏として中国語と日本語の新聞を翻訳して政治情勢の収集にあたっていた。戦時中は日本の捕虜となり、大戦後は定年までライデン大学の中語学の教授を務めている。

ファーズは1933年にノースウェスタン大学で極東の政治研究で博士号を取得し、1934年から1年間は京都帝国大学で、翌年からの1年間は東京帝国大学で研究を行い、戦後はロックフェラー財団の研究員となっている。来日前にはパリに短期間滞在しておりエドウィン・ライシャワーと知己を得た。それが機縁となり1962年に再来日してから5年間、東京のアメリカ大使館の公史参事官を務めている。1964年には國學院大學から名誉博士号を授与されている。

アッカーは二人と共に、明時代の弓術書『武経射學正宗』の研究もおこなっている。多少の衒学的な印象も受けるが、そもそも日本の弓術の言語的なベースな中国の古典に依拠している。現代でも巷間の道場に掲げられている射法訓は礼記という2400年以上前の中国の古典が基となっている。これらの原典にあたって弓道にアプローチすることは、むしろ研究者であったアッカーらにとっては実際の弓を引く以上に得意な分野であったことだろう。

アッカーは中国学を専攻し、古典を理解し、翻訳書も著し、そして同業の仲間とともに弓の古典を原語で輪読している。ここで気づかなければならないのは、アッカーは単に弓を引いただけの物見遊山の外国人ではないということだ。オイゲン・ヘリゲルという人は日本語を理解せず、通訳を必要とし、そのために訳業の誤謬が大いなる間違いを生み、世界的な名著を生み出したという言説すらあるが、

その一方で、ともすれば簡易的な弓道のテキストブックを作った人物として看過されがちなウィリアム・アッカーという人物は、戦前の日本の弓道に触れた外国人で最も言語を理解しかつ東洋の古典を専門的に身につけていた人物である。日本人でも読まないような本を読み、複雑な思考も得意としたはずの人物が、最終的に平易な概説書を作成したという事実こそ注目すべきなのである。

アッカーは、熱心な学術家と苦心する実践家という二つの側面がバランス良く両立していることが分かる。実践家という側面に関してもアッカーは日本人でも積まないような通し矢の小口前の稽古をおこなっている。

ハルセヴィ君とファーズ博士もよく弓場を利用していたが、彼らと共にわたしはある冬の2週間「寒稽古(kangeiko)」という練習を行った。朝5時に起床しまだ暗いうちに身支度を済ませるといったことも含まれる。最初は筈を弦に出来る限り早くつがえ、棒矢を巻藁に一人百本射込み、そしてその後になってはじめて的前で射ることができるのである。

前掲書

8.ウィリアム・アッカーの外国人という立場

ここからの章はアッカーを取り巻く当時の環境や世相について考察をしていきたい。彼が武徳殿弓道場を訪ねて、なかば門前払いになりそうなところで那須に拾われ、寺の軒先で巻藁稽古を積み、わずか数ヶ月で自宅弓道場を建てる、という目まぐるしいエピソードは、外国人弓道家ウィリアム・アッカーとその他大勢の日本人弓道家との間の微妙な距離感を表している。

ここで考えなければならないことは次の点である。そもそもウィリアム・アッカーが当時の京都弓道界で自由に道場に出入りできる立場なら、わざわざ寺の軒先に巻藁を置いて稽古をしたり、自宅に矢場を設ける必要などあっただろうか。

山田氏の研究によると、アッカーはアメリカの上司に宛てた書簡のなかで「弓道はやたらとお金がかかる」とぼやいている。学芸員アッカーの給与で自宅道場を持つのは決して金銭的に楽なことでなかったことを暗に示している。弓歴わずか数ヶ月で自宅道場をもつという情熱は大したものだが、裏を返せば、京都市内の弓道場に自由に出入りが出来る立場ならそもそも矢場を建てる必要はなかったはずである。

当時の国際情勢は、1931年の満州事変、1932年のリットン報告書を経て、アッカー来日直後の1933年2月24日には日本は松岡洋右のもと国際連盟からの脱退を宣言している。アッカーは1933年2月10日に京都に到着しているが、当該年に日本国内に3ヶ月以上滞在したアメリカ人は日本全国でわずか859人しかいない(国際観光局編, 入国外人数統計 昭和8年度, 1933, 国際観光局, p 4.)。アッカーは当時極めて微妙な外交関係にある国から来た数少ない外国人であった。

日本は敗戦後にGHQより出された武道禁止令により、それまでの武道の国粋主義的な結び付きが徹底的に解体されることとなる。現在の全日本弓道連盟が誕生し、一方で吉田能安のような武徳会を復活させようという復古主義的な活動も見られるが、総じてこの時代の武道は政治と不可分に結びついていたことに特色がある。

日本の大正デモクラシーが過ぎ去り、国粋主義が台頭し、大日本武徳会は日本人の崇高な精神をあまねく鼓吹する精神的な組織へと変化していく。弓道を媒介として日本全体に国粋主義的な精神教育をほどこす。弓道に本当にそのような力があるのかは、それはそれで興味深く懐疑的なテーマだが、少なくともGHQによって戦後押された烙印はそのようなものであった。

アッカーは1937年11月29日に日本を離れている。1933年2月に京都に来てから足掛け4年有半の滞在であった。1937年7月には盧溝橋事件が起き日中戦争が勃発し、同10月にはアメリカがABDC包囲網を構築し対日の禁輸政策をおこなっている。本書の下巻が出版されなかったのも、アッカーが日本を離れざるをきな臭い国際情勢が背景にある。

9.アッカーの弐段取得

アッカーは苦節4年間の修業を経て、京都武徳殿北野支部の審査で弐段を認許されている。1936年4月に出版された『及川廣愛翁傳』にはアッカーは同僚のファーズと共に英文で祝辞を寄せており、審査員の一人であった及川の目前で弓を引けたことを「光栄に思う」と述べている。ファーズは前述のアッカーともに寒稽古を行った同僚であり冬の厳しい寒さのなかで行われた及川の射礼が微塵も滞りを見せなかったことが「いまも目に焼き付いている」と述懐している。

アッカーが寄せた祝辞(『及川廣愛翁傳』,p.119,1936年)
ファーズが寄せた祝辞(前掲書)

及川廣愛は京都亀岡藩の出身で、当時でも数少ない旧幕時代に弓を修めた武徳会範士である。前述の『及川廣愛翁傳』にはアッカーが書を習った明暗寺の小林治道(紫山)や、審査員の一人でありアッカーが出稽古に訪れた滋賀の堀田義次郎(弓道範士、当時の大津市長)なども祝辞を寄せている。

なおアッカーが弓道審査を受けた武徳殿北野支部とは、京都市上京区の北野天満宮前にかつて存在した「平安道場」のことである。戦前は「北野武徳殿」とも称され武徳会京都支部道場であった。なお当時の建物の一部は現在青蓮院門跡の飛地境内である東山山頂に移築されている。弓道場はどのような様式のものであったかは分からない。ただアッカーの弓場があった出雲路松ノ下町の自宅からは3キロメートルほどの距離であった。徒歩でも通える距離で当時は路面電車でもアクセス可能である。

昭和10年代の京都市中には、武徳殿、體勇社(たいゆうしゃ)、平安道場、審正館といった弓道場があった。このうち體勇社はアッカーが学んだ日置流竹林派の道場である。アッカーが自宅弓道場を建てたのは単に弓道熱が昂じたためだろうか。周囲には複数の練習環境があるなか、わざわざ自宅に弓場など建てる必要はあったのだろうか。このことはアッカー自身が「弓道難民」であったことを示唆している。

相国寺の軒先にわざわざ巻藁を運び込んで稽古をすることは本当に必要なだったのだろうか。最初に訪れた武徳殿や近隣の道場に稽古に通えば良いだけの話であるが、そうはならなかったのは日本の弓道場に足を踏み入れるには相応の躊躇があったためではないかと思われる。

米国人弓道家ウィリアム・アッカーと当時の日本人弓道家の間には埋まらない溝が終始存在したことを感じる。中国語の古典を読みこなし日本語も話したアッカーにとって、果たして問題になったのはコミュニケーションだったのだろうか。

10.執筆の動機―アッカーの審美眼―

ここからは『東洋弓道基鑒 巻上』が執筆された経緯について見ていきたい。結論から言えば「大日本武徳会外人指導係」という立場の那須容和が、外国人相手に弓道をコーチングする手段として英文のマニュアルを必要としたためと思われる。なお、すでに当時は正面打ち起こしを英語で解説した『英文 弓の手ほとき』が存在していたが、那須は自らの流派である竹林派の概説書の英訳を望んでいたと思われる。そのため本書は射法八節ではなく竹林派の七道をベースに射法が解説されている。

『東洋弓道基鑒 巻上』の序文でアッカーは次のように語っている。「正確に言えば私は翻訳者であり、これから先の文章の共著者ではない」と。しかしながら本当にアッカーは翻訳者として機械的に訳業をこなしただけなのだろうか。

実は本書は随所にアッカー自身の審美眼や考察が散りばめられており、単に翻訳を担ったという立場を超えてアッカーが自身の意見を標榜している箇所が見受けられる。そこには訳者注(Translator’s note)というアッカーによる補足説明が加えており、本文84ページに対して訳者注は18ページに及んでいる。

西洋人にとって極東の弓術の最も興味を惹かれる点は、昔のロジャー・アスカムの時代のイギリス弓術のように、中国と日本では未だに弦が耳の後方まで大きく引かれるという事実である〔…中略〕。東洋の弓を引き絞った状態(the Oriental full-draw)の卓越したバランスと絵に描いたような美しさは否定しようがない。そうすることによって胸に自ずと張りができ、肩は両側に最大限伸びるようになる。こうしたことから東洋の弓術は、精密さの面では決して我々の弓術と比肩しないながらも、より良い身体訓練になると思われる(…中略)。
この点を考慮することで、アメリカの射手が長尺の弓を実験して、昔のイギリスの様法で、より大きな引き分けをするよう期待する。そして幾人かが刺激され、独自に日本の道具を入手して、手ずから試すことになればよいと思う。

『東洋弓道基鑒 巻上』序文

ロジャー・アスカム(Roger Ascham;1515~1568)とは中世イギリスの教育学者で、1545年にそれまでラテン語が主流であった技術書の領域ではじめて英語による弓術書”The Toxophilus”(「術への愛」)を著した人物である。アッカーの記述にあるように、中世のロングボウ射法は今のアーチェリー射法のような鼻前ではなく耳の辺りまで弦を引いていたようだ。日本の弓は「精密さの面では決して我々の弓術と比肩しない」というのは手厳しい論評であるが、弓道の「会(會)」である”the Oriental full-draw”を美しいと表現したのはアッカー独特の感性である

このことはオイゲン・ヘリゲルが弓道を外形的なものではなく精神的なものとして語っていたのと好対照で、アッカーは絵画的な美しさで和弓の美を見出していたことが伺える。

11.アッカーにおける「禅と呼吸」

アッカーはしばしばヘリゲルとの対比される。ヘリゲルは神秘的な哲学者であり、アッカーは実践的なリアリストであると。弓道を学び帰国して数年を経てから禅と弓の合体を編み出して哲学を語ったのがヘリゲルである一方、弓道修行に真正面から挑み日本にいる間に武徳会段位を取得し弓道の概説書を残したアッカーは、弓に触れた過程はさほど変わらないにも関わらず、弓に対する向き合い方が好対照であると。

さて『東洋弓道基鑒 巻上』ではアッカーが「那須の教えの翻訳」に努めたとされているが、本当にそうなのだろうか。

本書には随所に訳者注(Translator’s note)という補足説明が加えている。その分量は本文84ページに対して実に18ページに及んでいる。とりわけ「呼吸」の項目では本文の説明が2ページという簡素なものなのに対して、アッカーの訳者注は6ページも付記されている。弓道に不案内な英語圏の読者を意識したものかもしれないが、那須の原文がまったく禅に言及していないのにも関わらず、あえてアッカーは注釈で禅の話題を持ち出し文化論を語っている点は注目すべきだろう。

なお、この部分が「訳者注」であるという断りは1965年出版の”Kyudo The Art of Japanese Archery”では削除されている。

〔那須の執筆した呼吸の項目〕
呼吸には胸式と腹式の二種類があるが、腹式呼吸がより自然なものであって、胸を大きく上下させることなく行わなければならない。胸式呼吸はぎこちないもので、実際に行うと絶え間ない胸の上下運動が疲労の原因となる。しかし胸から息を吐くことは簡単であるし、ある種の安堵感もある。呼吸法を学ぶことは、自然な呼吸を知ることでもある。そうすることで丹田(the pit of the abdomen)に力を集中させることを会得し、弓道の真の理解に到達するともいわれる。つまり呼吸法は荒くならず、停滞せず、沈んだり浮ついたりするのでもなく、穏やかなものでなければならない。離れの直前の弓を引き絞った時でさえ、そのように呼吸すべきである。

〔アッカーの注釈〕
呼吸に重きを置くことは、集中力を高める方法と同時に神経を落ち着かせる手段でもあり、仏教の禅宗の影響を反映したものである。〔…中略〕禅の行者は一元論者でもあり、魂と物、心と身体に境目を見出さない。というのは、人は肉体的な修行をすることで心や魂を超越して、身体動作をおこなうだけで精神的・霊的レベルが望んだ状態に辿りつけるからだ。

禅は中国語で「チ」、日本語で「気(き)」と発音される語を多用する。気は「呼吸」、「魂」、「オーラ」、「元気」、「神経エネルギー」など、様々に表現される。電気が電線を走るように、気は身体の一端からもう一端まで神経を駆け巡る神秘的で電気のような流体である。それを描写するのに、鮮明で明確な単一の言葉が英語には存在しない。「気」の翻訳に使用される多くの単語や表現は、高尚ぶって不鮮明な印象を与える。〔…〕人間の気は(繰り返せば、電気のように)はっきりとした身震いや衝撃を他者に与えるのである。

中国人は、少なくともそれを修練により自由自在に操れるようになれば、「気」を可塑的な神経エネルギーとして捉えている。例えば、背中・足・腕・肩・臍にしかるべき手法で気を集中することもあり得る。

〔…〕禅宗の僧侶にとって、祈祷やある種の神がかった忘我の瞑想など、純粋に精神的な方法のみで心的成長を達成しようとするのは、言ってみれば精神が独力で精神そのものを高揚させる試みのように思える。〔…〕身体とは「全体的な」ものではなく、魂は捉えどころのないものでも高尚ぶったものでもない。

〔…〕禅宗が中国から日本に伝来したとき、すぐに禅は宮廷や各地の知識人の間で人気を博した。一定で深い腹式呼吸の好ましさと、神経エネルギーを肚に集中させるという考えは、あらゆる武術や上流の所職に伝播した。いまでも、雅楽奏者や、画家、書道家などは皆これを推奨し実践している。茶道においては必要不可欠なものである。華道においても、枝をたわめて望ましい曲線をつけて活けるときなど、禅のように座り、そのように呼吸することが指導されている。

そのため日本では、美術も武道もある意味、半宗教的な性質を備えている。どちらの場合でも、愛好家が言うには実践することが精神鍛錬となる。〔…〕一連の、箏・絵画・書道・茶道・華道、そして武道のなかには、剣道・柔道・弓道が含まれているのである。

〔…〕的を射抜くことがどういうことか、というのは微塵も重要ではなく、本当の問題は弓道から精神的に何を得るのかである、と言う弓道家もいる。この態度は『健全なる精神は健全なる身体に宿る(mens sana, in corpore sano)』として存在するが、あらゆる日本の芸道(art)で修得が必要不可欠とされる腹式呼吸は、西洋には存在しない。そして禅がなければここまで、この技法が発展することもなかったのである。

ここで長々と付記されているアッカーの訳者注はオイゲン・ヘリゲル並みに難解で一部は意味不明で『弓と禅』を読んでいるような気分になる。訳注は全体で18ページだが、そのうち3分の1の6ページを呼吸の説明に割いているのだから、アッカーも気の入りようもひとしお感じられる。

序文にあった「正確に言えば私は翻訳者であり、これから先の文章の共著者ではない」はどう解釈すべきだろうか。私たちはともすればアッカーはリアリスト、ヘリゲルが神秘主義の夢想家として簡単に対比しがちであるが、上記の文章を見ると、アッカーが禅と弓道の関連性に着目してたことがよくわかる。本文そのものは技術指導書であるから一見して平易だが、しかし随所にアッカーの文化論を見出すことができることから、アッカーもまた東洋の神秘に触れ、その魅力を自文化にフィードバックしようとしたことが示されている。弓と禅はアッカーの脳裏にも意識されていたのである。

12.謝辞
『東洋弓道基鑒・巻上』は250部しか印刷されなかった私家版であるが、アッカ―の未亡人から譲り受けた謄写版を現在、オランダのTheo van Vliet氏が保管している。氏は今回この拙文を執筆するにあたってアッカーに関する様々な情報を与えてくれた。謹んで御礼を申し上げる。

13.『東洋弓道基鑒巻上』序文の翻訳全文
 私が日本の地に足を踏み入れた時、すでに心の中は日本の弓術(the archery of Japan)を学びたい想いに満ちていた。ながらく私は故郷〔訳注:アメリカ〕でイギリスのロングボウを嗜んでいたからだ。日本での最初の数ヶ月間は弓を一切引けない忙しさの内に過ぎていき、平安神宮に隣接する武徳殿へ見学に赴いたのは、その年〔訳注:1933年〕の5月のことであった。4月には北京に逗留して、有名な弓箭大院〔訳注:弓師が店を構える通り〕で中国弓を数張購入していた。これが東洋弓術の考察の機縁となり、京都に戻った折には、武徳殿を一度訪ねるつもりでいた。
 最初に武徳殿を訪れた日、私は道場に入ることを許され、射手が矢を放つさまを座りながら観光客のように見つめていた。私は日本語を話したので、その場でせわしなく質問をしつつも、アメリカの弓術に関して様々に問われることに返答を重ねていた。しかし私が、日本の弓を学びたいと申し出たところ、そこには一様に首を振る姿があった。たしかに外国人が挑戦することは出来るが、上達はしないだろうという総意があったように思う。
 しかし那須容和という人物が、おそらくは議論を盛り立てようと私に加勢するなり、自分の考えでは日本人や外国人を問わず、必要な知性と忍耐を備えていさえすれば、どんな人物でも稽古を積むことはできるだろうと言った。すぐにその場で那須さんは快く、外国人でも弓道(Japanese archery)は上手になると証明しよう、と翌日から稽古を付けてくれることになった。
 しかし那須容和という一人の人物が、おそらくは議論を盛り立てようと私の側について、自分の考えでは日本人や外国人を問わず必要な理解力と忍耐を備えていれば如何なる人物でも稽古をすることはできると断言した。そしてその場で寛大にも彼は、日本の弓は外国人でも修得できると示すため明日から稽古をつけようと提案してくれたのである。
 私たちはほどなくして武徳殿を辞去し、那須さんの家で抹茶を一服し、暫し会話をした。それから矢師のもとを訪ねると、彼は私のために矢を注文してくれた。最初は先が尖っていない羽根も付いていない練習用の矢である。彼が言うには、本式の矢で的に射るようになるにはかなりの時間がかかるということであった。
 当時は私は御苑の北側にある禅宗の大本山の相国寺にある小さな塔頭〔訳注:普廣院〕に部屋を借りていた。以前住んでいた僧侶が隠退したので空いた部屋を書生に貸し出しており、その恩恵に預かることができたのである。塔頭はすばらしい静寂に包まれ、部屋は背の高い竹林が密生した庭を見下ろすようになっていた。そこから数ヶ月、知己であり師である那須容和氏がほぼ毎日早朝にたずねてきて、日本の弓射の技芸を教えてくれたのである。
 彼は手始めに弱い弓を貸してくれて、自分の巻藁を持って来てくれた。わらの束を大きな円筒状に締めつけたもので、バスタブに収まるほどの大きさのものもある。それに向かって初心者は4ないしは5フィートの距離から先の尖っていない羽根無しの矢で、的矢を任せるに足るほど型が熟達するまで稽古を積むのである。
 それは過酷な作業だった。数ヶ月があっという間に過ぎても私はまだ巻藁の前に立っていた。傍らで那須さんが一射一射に自由に講評をして、巻藁に延々と棒矢(羽のない矢)を射て、引き抜き、という作業の繰り返しだ。たまに那須さんが背中に回り込んだと思うと、胴造りがしっかりしているか見るため突然押してくることもある。あるときは何もかもが上手くいかない。またあるときは見違えるように上達したと評される。徐々に、本当にゆっくりとではあるが、手の内をやわらかく、崩さずに保つことを覚えると、離れの時に手に持った弓が回転するような気がした。日に日にその兆候は強まった。すぐに弦は半円を描くまでになり、外竹が自分に正対するところで止まるようになった。そして常に那須氏は私が手で弓を回そうとしないよう注視していた。弓返りとはその美しさをもって賞賛されるのではなく、弓手の手の内が正しく整ったときに自然に起こる現象なのである。その時が来るのには更に数ヶ月を要したが、ついに、弦が勢い良く回り手首の外側を叩いた。弓返りが日常的に起きるようになったのである。
 その間、那須氏は折々弓射の種々の動作―足踏み・引き分け・保ち・離れ―についての短い説明をしたためており、話し合いを重ねるなかで翻訳をおこなった。つまり正確に言えば私は翻訳者であり、これから先の文章の共著者ではないのである。しかし、アメリカの射手たちが理解しやすいように満遍なく多くの努力を費やし、個々の詳細についてはその都度議論をしてきたため、その結集は充分に共作と呼ぶに足るものであると思う。
 日本の芸術と言語の研究から私はいかに短い時間しか割くことができなかったことか。私以外にも関心を示して、翻訳を助け議論に参加してくれた人たちがいる。まずアントーン・ハルセヴィはちょうど1年間京都に滞在したライデン大学の学友であり、その間彼もまた弓を学んだ。もう一人は経済学と行政学の研究者のC・ファーズ博士である。二人と那須氏と私は折を見て夜に集まり、射學正宗―射術研究の正当派で中国明代の弓射の古典―の大部分を翻訳した。ハルセヴィ君は最初の作業を共にしただけであるが、ファーズ博士は我々と何ヶ月も作業を続けてくれた。非常に興味深い文典であるから、アメリカ人の射手が恩恵を受けるところも多いと思う。
 本書は一般的な日本の弓道に関する論文ではなく、日本で実践されている弓の目的とその方法を短くまとめたものであるが、いずれにせよ私が教えを受けた内容である。というのも日本には異なる伝統を持ついくつもの弓道の流派がある。ある流派が強調するものがあれば、他の流派は別のことを重んじるが、概してそれは余り重要ではないこと―技術上のささやかなコツや儀式の方法の問題―のように思える。たとえば、会と離れに関することとなれば、どの流派も一様で、殆ど相違するところがない。そのため読者は日本式の射の典型を公平な表現でここに見ることが出来るであろう。それは原理的には日本の他流派と、あるいはむしろ東洋の弓術とおおきく相違のないものである。
 西洋人にとって極東の弓術の最も興味を惹かれる点は、昔のロジャー・アスカムの時代のイギリス弓術のように、中国と日本では未だに弦が耳の後方まで大きく引かれるという事実である。二つの体勢を射手の頭上から示した図から分かるように、私が思うにこれはある意味で長所となるだろう。最初の図はアメリカ式の引き絞った状態であり、弦が大きく耳の後ろまで引かれない限り、馬手の肘は肩の位置の線から鈍角となることを示している。
 二つ目の図は馬手の肘の相対的な位置と東洋式に引き絞った時の肩の位置を示している。アメリカ式に肘で引き続ける代わりに弦を最大まで引くことは馬手の肩に委ねられているのである。(上図の)アメリカの引き絞った状態は耳を大きく越えるものではなく、肘が肩の線と平行にはならないが、(下図の)日本の引き絞った状態では平行となっている。アメリカ式に肘で引き続ける代わりに、勝手の肩で引き絞った状態の弦を受けるのである。
 東洋の弓を引き絞った状態(the Oriental full-draw)の卓越したバランスと絵に描いたような美しさは否定しようがない。そうすることによって胸に自ずと張りができ、肩は両側に最大限伸びるようになる。こうしたことから東洋の弓術は、精密さの面では決して我々の弓術と比肩しないながらも、より良い身体訓練になると思われる。東洋の方法を見極めるのにこの点は留意されるべきであろうし、昔のイギリスの射手が耳に届くまで引き分けていたことを喚起するべきである。イギリス人は指の先端の覆いを用いて引いていたが、日本人は親指の根元に溝のある手袋に弦をおさめる(後述の図参照)。昔のイギリスの弓術よりも日本の射術における弦はかなり耳の後方まで動く―これは実際には、親指の溝と人差し指の先端までの距離による違いである。
 この点を考慮することで、アメリカの射手が長尺の弓を実験して、昔のイギリスの様法で、より大きな引き分けをするよう期待する。そして幾人かが刺激され、独自に日本の道具を入手して、手ずから試すことになればよいと思う。二つの方法は全く異なるため、これはかならずしもアメリカの弓の技術を損なうものではない。日本の弓術とその他ほぼ全ての弓術のもう一つの大きな違いは、射術がその目的のため特別に構築された仕組みに則しておこなわれるということである。
 相国寺の房室に六ヶ月住んだのち、わたしは結婚のため短期間アメリカに帰国した。そして日本に戻る際、賀茂川沿いで京都東部に連なる峰の最高峰である比叡山をのぞむ場所に住まいを得た。庭は矢場を整備するのに十分な広さがあった。的を立てるための小屋や、射場用のより大きな建物、その間に砂利道を作る必要があった。日本では弓射(shooting)の大半がこの方法でおこなわれている。日本人が野原に的を置き青空のもとで引くことは稀であり、狩猟をすることなどはまず考えられない。こうした建物によって弓の試合はより居心地がよいものとなる。もし屋外で行われることがあっても、それは天候の心配をする必要がないときである。弓場(yumiba)が完成すると、那須さんと私はさまざまな京都の団体や会から多くの射手を招待して、一種のこけら落としを行った。儀式の初めにまず二本の矢を射るが、私は幸運にも二本目を的中した。
 ハルセヴィ君とファーズ博士もよく弓場を利用していたが、彼らと共にわたしはある冬の2週間「寒稽古(kangeiko)」という練習を行った。朝5時に起床しまだ暗いうちに身支度を済ませるといったことも中には含まれる。最初は筈を弦に出来る限り早くつがえ、棒矢を巻藁に一人百本射込み、そしてその後になってはじめて的前で射ることができるのである。
 師である那須氏に最大の感謝の念をもってこの序文を終えたい。彼は生まれながらの侍にして、かの那須与一とおなじ姓をもつ。12世紀に屋島の戦いで源氏の軍勢が平氏の船を追い立てたが、その着岸を待つ最中、技を見せよと小舟に乗った敵が帆柱に掲げた扇を射抜いた人物である。与一は扇を射たのみならず、竹の骨組みの要を正確に射抜いたのである。まさに日本のロビン・フッドの名に値する一矢である。
 ともあれ私の師であり、幼少の頃から射手として育った那須氏の話に戻ろう。現代の弓の大きな人気は再流行を見たつい1923年〔訳注:なぜアッカーがこの年を挙げているのかは不明である〕のことに遡り、彼が弓を習い始めた当時、日本では弓射は絶滅の危機に瀕していた。そのため彼はそれ以降に弓を学んだ者よりも弓の古い伝統に遥かに通じているのである。彼の師である市川虎四郎は戦場における弓を目のあたりにした人物であり、80歳のとき道場で弓を引いているときに亡くなったという。日本の弓についての何かを、他の先生から学ぶこともできたであろうが、那須氏の寛大な情熱と熱意がなければ、この小篇は決して執筆されることはなかったであろうし、武徳殿北野支部の審査で初段と弐段を取得しユガケに紫の紐を附けることを許されることもなかったであろう。そうすることができたのは、本物の日本の弓の流儀を西洋に伝えんとする那須氏の熱意にまったく寄るものである。


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