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野良犬

何度目かの旅がこころ沈む雷雨にみまわれていても、危険は雲の中にあるのではなく、地面を走ってくるのだ。
顔のない真っ白なきみが追いかけてきては、
あれこれ薬箱をひろげてぼくの面倒をみようとするけれど、ぼくは野良犬に姿を変えて、すべての遭遇をすりぬけてみせる。

野良犬は生かされている限りにおいて、殺されるかもしれないのだから、怪我をなめては土地を横切るしかないのだ。

雨があがり、きみの姿が見えなくなって三日か一週間。ぼくは方々彷徨ってようやく見つけた焚火の前で姿をほどいて一息ついた。だけど、ぼくの前足だけが元に戻らなくて、醜いヒズメを焚火にかざして暖をとった。

いまやぼくは半分、方角さえわからない無知な動物になったのだ。
それでもまだ身体だけが覚えている恐怖がぼくの希望だった。それはぼくの夢がかなっている証拠だった。すべての元凶がきみにあるって、そんな夢にすがるしかなかった。

冷たい朝に目覚めるとぼくのヒズメに白い包帯が巻かれてあった。
ぼくを病人にみたてる癖のあるきみの仕業だとすぐにわかった。きみに見張られているため、すぐに村をでなければならない。
焚火を消したあとの残り香が、ぼくの後ろ姿をあやふやにした。

野良犬は恩知らずできまぐれだけど罪悪感は持ち合わせている。
野良犬は警戒心を動物的本能で理解していて
自分が害をなす存在だと気づいている。

「ずっと待ってるから」「チャンスは一度きりだ」「もう遅すぎる」
「いますぐ迎えに来て」「今でも思い出す」
「どうしてこんな目に」
「僕は知らないよ」「きみはバカだ」

そんな言葉たちが壁際の影から跳ね返ってくる薄暗い午後、ぼくは再び野良犬になった。
少しの油断が、ぼくを懐かしの地へと赴かせていた。そこに、白いスカートが干してあるのを見つけたからだ。
ぼくたちの共通言語。白いスカートは愛情のしるしだと。
顔のないきみが一度だけ笑ったときにそう言っていた。
ぼくは愛を信用しないため野良犬になったのだ。愛を信用しないために。

真っ白なスカートをたくしあげてきみがジャガイモを運んでいた黄色い記憶の中の夕暮れ。こぼれた子芋を拾いながらきみの後を追った。その頃、ぼくはまだ愛を信じていて自分が野良犬になるなんて思ってもみなかったんだ。
ねぐらへ帰るカラスたちに、手を振ってお別れした。人としての幸せ。くすんだ色の影法師がふたつ、重なり合ってひとつになり、その温かな手をいまでも思い出す。その土の匂いこそ、ぼくの原点。何もかもが染まりゆく世界の中で、きみのスカートだけが真っ白に輝いて見えた。ぼくって思い出に弱いんだ。
悲しくなりながら、汚れたヒズメで白いスカートに、めちゃくちゃなサインをしておいた。

まだまだきみへの愛情に異議を唱えると。
きみの疑わしい愛から逃げきってみせると。

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