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巡りゆく暁

「朝陽の中で待ってます」
思い出の中に手を入れて、掻き回してみると、底の方で固まっている光の粒が浮かび上がってくる。
「朝陽の中で待ってます」
あれは、まだわたしが古書店を経営していた頃。隅の方で埃をかぶっていた「近代世界文学全集」全97巻を、2週間かけて買い取っていった若い女がいた。女は決まって、夕刻に現れて、わたしが店前の裸電球に明かりを灯すのを待ってから、店内に入るのが常だった。
最後の日、残り7巻を袋に詰めていると、女は何も言わずにわたしの手の中に、小さなメモを押し込んだ。そして重い袋を抱えると、真っ直ぐに戸口の方へ消えて行った。
そのメモが前述したそれだ。
駅前に「朝陽」という洒落た喫茶店があることは有名だった。この誘惑は抗い難い。
いつもパンツスーツで身を固めている無表情な彼女の口元が、今日こそ、少しでもほころぶのだろうか。テーブルに置かれたわたしと彼女の手は、近代文学を語り合いながら、少しずつ近づくのだろうか。そんな邪(よこしま)な考えで脳内をいっぱいにするわたしには、妻がいた。
「おつかれさま、帰るわよ」
夕飯の買い物ついでに書店に寄った妻の顔は、裸電球が逆光になって影を落としている。
わたしは、レジを締めながらあてどなく視線をさ迷わす。
「今日は、先帰ってろよ。」言いながら声が震えた。
「なにか用事?」苛立たしげに妻が古い本棚を小突くと、ちょうど文学全集が収まっていた空間に、上から古本が雪崩れ落ちてきた。わたしは、慌てて駆け寄る。
「大丈夫か」落ちてきた無数の売れない古書をかきわけながら、妻の姿を探したが、その空間には誰の姿も見当たらず、ただ埃だけがもうもうと立ち篭めるばかりだった。
そして、ふと足元を見やると、あの小さなメモが落ちている。
「朝陽の中で待ってます」
その日から、妻の姿はわたしの前から消えた。どんなに探しても、妻は見つからなかったし、わたしの人生の記録から、一切を残さず消えてしまった。
わたしは今日も、夜明け前に目を覚ます。
日の出を見に行かずには居られないのだ。
誰を探して?
その答えもわからないまま。
朝陽の中で笑っているのは、果たしてどちらの女だろうか。
暁は巡る。暁はまた、まぶしい光の粒となって、わたしの思い出に沈んでいく。

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