はなの死

昨日、我が家の愛犬が亡くなった。訃報を聞いた瞬間は「まじか」しか言えなかった。もう少し側にいてあげられたかなとか、数日前に帰省したのが最後で別れ際があれでよかったのかなとか、苦しんでなかったなとか、そんな事を思いながら自然と涙が出た。自然と涙が溢れるなんてのはいつぶりだろうと、そんな事を思うほどには自然と溢れた涙だった。母の訃報を伝える声が震えていた事を覚えている。朝早くに電話があったので、母がそんな朝早い時間にかけてくるのは珍しかったので嫌な予感はしていた。正直、今でも本当にはなちゃんがこの世にいないなんて事は信じられないし実感が湧かない。無理に実感が湧く必要もないし涙を流す必要もないが、何だかこの手の悲しみは、心の重みは一生続くような気がしている。はなちゃんはもう戻ってこないし恐らく70になっても80になっても花ちゃんを思い出すたびに俺は苦しくなるかもしれない。はなちゃんとの思い出を思い出す度に泣いてしまうかもしれない。大きな悲しみではない。ある程度の覚悟はしていたからだ。かといって小さな悲しみというわけでもない。普段身の回りの出来事で味わう悲しみとも違う。

今回俺がはなちゃんに会いに行こうと決めたのははなちゃんに会わずに家で苦しんだり悶々としているよりもはなちゃんに最後に会った方がはなちゃんの死を受けいれられるのと、その間ははなちゃんに最後に会えるという嬉しさを感じていられるからだと思う。もう一回最後に会っておかないと、はなの記憶が思い出せばいつでも泣いてしまうような、この先もずっと受け入れられない記憶になってしまう気がしている。だから、俺は今日福岡に降り立った。俺が福岡に行くことを推してくれて、家にまで泊めてくれた兄には感謝したいしやはり彼が俺の兄でよかったと心底思う。今日遊ぶ約束をしていた友人たちには申し訳なかったし素敵で優しい言葉をかけてくれた友人達、そしてはなの死をすぐに伝えてくれた母と、どんな時間になっても迎えに行くと言ってくれた父、本当にありがとう。俺ははなの死をむかえ、心の底から吉岡家全員で同じ墓に入りたいとそう思った。

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