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多様性、多様性と言うけれど。

最近よく聞く「多様性」
俺の書いた記事にも何度か登場しているこの言葉。

10人いれば10個のアイデンティティがあるのは当然である。似ていても同じはないから。

さて、今日はその「多様性」を認める?受け入れる?ということについて少し書こうと思う。

皆さんはどちらを使うだろうか。
もしくは両方使う?
多様性を認める?
多様性を受け入れる?

これを考えるにあたって、俺が世界で一番嫌いな野菜、セロリを例に考えていきたい。

セロリのあの独特なニオイ。シチューに隠れてても伝わるあのニオイがダメで。
マヨネーズをめっちゃつければ!とか、生で食べてる家族を見て、セロリを生で食べる気が知れない。

ただ、セロリを好き好んで食べる人が嫌いとか、その人たちを否定するわけではない。

セロリが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
まず、これを覚えておいてほしい。

次に、セロリが好きな人も、生で食べるのが好きな人も、なにかに加えて食べるのが好きな人も、また、生で食べるのもマヨネーズなのかゴマドレッシングなのか、塩なのか、それともつけないのかなどと、様々であると考えられる。

これらのことから、多様性を認めるとは、
みんな「違う」ということに気づき、それを認めること。「違う」ということを恐れないこと。違いは様々であること。どっちが正しい、間違ってるではないということ。
ではないかと俺は考えている。

つぎに、多様性を受け入れる。ということについてセロリの例をもとに考えてみる。

多様性を受け入れるとは、俺がセロリを食べるということではない。
それは、セロリを食べる人がいるということを認めた上で、その人たちとうまく共存していくことであると思う。

例えば、俺の近くではセロリを食べない。セロリを入れる前に俺の分のシチューは別皿に移しておく。などお互いがお互いを尊重し合いながら合意形成していくことが必要ではないか。

人間誰しもお互いを完全に理解することは難しいと思う。だけれども1人で生きていくこともできない。

宗教、人種、肌の色、話す言葉、民族、移民問題など、日本では諸外国ほどあまり感じられないかもしれないこれら。
「違うのが当たり前であり、人間はみんな分かり合えるというのは間違っている」という感覚が必要だと思う。
先に書いたように日本では諸外国ほどあまり多様性が感じにくいと思われる。そんななか、「一致団結!」とか時には必要かもしれないが、グローバル化が進み、クラスに複数人日本国籍ではない子どもがいる担任になったとき、壁にあたるのではないか。

その際にコミュニケーションをとり、相手を理解しようとし、ときにはルールを作ったり、追加、変更していくなかでお互いがお互いを尊重し合いながら合意形成していけるような共依存の社会作りがこれから求められていくのではないかと俺は思っている。

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