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新しい生きがいが見つかる時の「型」

家族を失うこと
大病を患うこと
恋人と分かれること

いつ生きがいとなっているものが失われるかわからない。
生きがいを失った時、わたしたちはどのように新しい生きがいを発見しているのだろうか。
神谷美恵子著「生きがいについて」を参考に、
生きがいが回復される時の「型」について紹介する。

代償


たった一人の息子を失って悲しみにくれた親が養子をもらうことは少なくない。この場合、外見上は以前と同じ生き方が再び続けられることにある。
つまり代償といえる。

代償とは、ある目標を達成しようという欲求が叶えられないとき、その欲求が向けられている対象と類似した別の対象に置き換えることで、欲求不満の解消をすることである。補償との違いは、自分に劣等感はない点である。

いうまでもなく、死んだ息子が心に残していった穴はいつまでも埋められるものではない。自分にとって大切な人のかけがえのなさというものは、そのひとを喪ってみて、はじめて身にしみてわかる。そういう愛の対象を失ったための深い悲しみと無常感は、のこる者の心の質をそれまでよりもやわらかに、こまやかに、ひろやかに変える傾向がある。

「愛し、そして喪ったということは、
いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ」<イン・メモリアム>


変形

フランスの心理学者リボーの「いかに情熱は終わるか」というところから筆者がヒントを得たものである。リボーの考えでは、あることに対する情熱が形だけ変わり、その基盤には共通なものがみとめられる時に「変形」と呼んでいる。一方で、全く性質を異にするものがそれまでの情熱にとって代わる時、これを「置き換え」と呼ぶ。

第一の変形が生じるには2つの前提条件がいる。
まず、もともとそこにありあまるエネルギーがなくてはならない。一つの情熱が失われても、そこから再び立ち上がり、新しい情熱に生きるためのエネルギーである。例えば、極悪人が偉大な聖徒に変わったり、芸術への情熱に生きる人が一歩間違えれば大犯罪者でもありえただろうと考えられたりする。(ベートーヴェン等)
もう一つは、新しい指導理念の出現である。
人物や書物や出来事との具体的な「出会い」を通して、もともとそのひとの人格構造のなかにあった、その理念に応えるものが呼び覚まされて、情熱の変形が起こる。変形のなかで一番よくみられるものは、ある特定の人間への愛がもっと多くの人への愛に変わる場合である。

愛する者は死んだのですから、
たしかにそれは死んだのですから、

もはやどうにもならぬのですから
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持にならなけぁならない。
奉仕の気持にならなけぁならない。
中原中也「春の狂態」

置き換え

前提として、これは複雑な問題を含んでいる。
人間は年齢によって生きがいとするものが変わってくる傾向にあることだ。フランスの語り草では、青年時代は恋愛、壮年時代は仕事への野心、老年には貪欲、といわれている。生理的、社会的条件につながっているのであろう。

年齢を別で考えれば、置き換え現象が起こりうるのは、ひとりの人間の中にいくつもの生きがいの可能性が共存している場合である。
青年時代にはそれらの可能性を次々の追求してみるが、やがてその混沌としたなかから一つの大きな目標が結晶して、他の全てにとってかわるようにみえることがある。

例えば、株の仲介人として、物心ともにゆたかな生活を送っていたゴーギャンは、35歳の時、職を捨て、絵に走り、現世のふつうの幸福をすべて破壊してしまった。他にも
ナポレオンは元々、想夢の傾向があって、生まれながらの行動的野心家ではなかったり、
イギリスの詩人バイロンは、元々冒険や探検が好きで、ギリシャの戦争に参加したり、
イタリアの劇作家アルフィエーリは、27歳まで旅行、女、馬などに熱中したが、ある時、劇作家になる決心をし、努力の激しさのために死んだと言われるほど、仕事に打ち込んだりした。

以上、どの例でも人生の途上で全く違った生存目標にむかって歩き出したようにみえるが、実際にはそのちがった傾向、その可能性はその人の中に潜在していたと考えられる。

このような色々な生きがいの可能性を持っている人間は、どこにいっても、そこで生存目標を見いだし、雑草のように強く生きていけるのではないかと思われる。以下は、ハンセン病療養所で生活する患者の「転業の記」からの抜粋である。

「私は入園するとすぐ陶工部に就業した。別に経験があるわけではなかった。・・・ただその雰囲気がよかったので、すすめられるままに部員となってしまった。しかしこの作業は・・・大戦がはじまり、戦況が苛烈になった時、真先に廃止されてしまった。わずかな年数であったが、苦心の作品が思う色に焼きあがった時の悦びは体験してはじめて知る味わいであった。しかし園内作業と言っても、一定の賃金を貰い、職業となると・・・人知れぬ苦労もあれば強い責任感も必要である。しかし人間というのは妙なもので、長年こうした仕事をしていると、むしろそうした、さまざまの苦労の伴うことに生きがいを感じ、悦びを与えられるものである。・・・私は健康、年齢、地理的条件からして、この作業こそ天が私に与え給うた最上のしごとであると観念していた。・・」<転業の記>

新しい生きがいを見つけるということ。

生きがいを失うと、価値体系が崩壊し、虚無感に苛まれ、荒涼とした世界を彷徨う。その域にはいれば、自殺、酒、麻薬、犯罪、ゲーム等、誘惑するものが目に入るようになる。これらは、簡単に苦労を一時的に取り除いてくれるが、代償として苦労を持続させる。苦労が持続すると「どうにでもなれ」「生きている意味も資格もない」等と、混沌とした世界に落ち込んでいく。

こういう思いにうちのめされている人に必要なのは、単なる慰めや同情や説教でもなく、また単なる金や物でもなく、「自分は誰かのために、何かのために必要なのだ」ということを強く感じることである。

自殺を図ろうとしていた青年が、小さな子どもに救われたという話がある。子どもが海に溺れそうになっているのを、彼がたまたま救って、自分でも他人の役に立ちうるのだと、絶望から立ち直ったのだという。

生きがいを失った人に対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、天からの使者のようなものである。

「君は決して無用ではない。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなくてはできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。」

こういうよびかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐに響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声を受け止めるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命があったのだ!」という自覚は、荒涼とした心の世界に、ふたたび瑞々しい生気を蘇らせる。


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