取材をすることは取材をするだけじゃない
こんばんは。
久しぶりにnoteを書こうと思った。
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個人的に誰かの話を聞くことが好きで、20代の頃はよく休みの人はセミナーや講義に参加していた。
大学3年生ごろから本を読むようになり、人の考え、経験に触れることって楽しいなと思った。
そういう意味で、今、ダブドリというバスケ雑誌で働いていることはある意味天職なのかもしれない。
人の考えに触れることの大切さを改めて感じていて、人の話を聞くことは素直に自分の中に入ってくることもあれば、「なんか違うな、そうなのかな」という疑問、「いや、それは違うだろ」という拒否という自分の感情に気づくことが多々ある。
もっといえば、烏滸がましいけど、「こうすればいいのにな」というちょっと上から目線なども持ってしまう自分に気づくことがある。
色々な感情があるのだけど、この「自分の感情に気づくこと」ってすごく大事だと感じていて、さらにいえば、「自分の思考の癖に気づくこと」がすごく大事だと感じている。
取材をさせてもらうと、そういう自分の思考に気づいて、でもそれを我慢できずについ
「これは僕の個人的な興味ですけど……」
などの枕詞をつけて、自分の興味関心だけを掘り下げてしまうことがある。
そういう独りよがりはよくないな
と最近感じる中で、今の時代の取材のあり方ってなんだろうと到底自分の考えるべきではない。自分では行き着くことのない答えを探す時がある。
その中で一つ大事にしていることは
取材をさせてもらったその人が、その時間をきっかけに
「頑張ろう」
と思えること
何か新しい「発見」
があってほしい
と個人的に願っている。
言葉を捻り出す、自分と向き合うとは時に簡単ではないからこそ、
その言葉がちゃんとこのさきのどこかで意味のあるものにできるように
背中を押せること
それは今の世の中における取材の意味ではないかなと感じている。
最近は人の言葉の揚げ足をとったり、都合より利用したり、下手したら捏造されたり、悪印象を与えるように切り取ったりする言葉がたくさん飛び交っている。
だからこそ、時間をもらって言葉を交わし合う中で
僕がもらえている学びという感覚を
取材対象でもあるその人にも感じてもらえるようにできたらいいなと思っている。
別にそれが正解ではことは、わかりきっているのだけれど、
言葉にはそれだけの強さがあると日々感じている。
取材をするということは
ただ必要な言葉を引き出すことではない。
今日ここで感じたこと、気づいたこと、わかったことを
道標にまたここから前に進む力を得ること
あわよくば、その先のどこかでまた成長したお互いが
言葉を交わす機会があれば嬉しい
すごくいい関係性をみた
すごくいい取材をみた
頑張ってきたからこそ、それぞれが頑張ろうと思えた
それを読んだ誰かもまた
頑張ろうと思えるものを作れたら
ちょっとだけ世の中を取材することでよりよくできるんだろうなと思った。
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