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「多様性の共存」という思想としての対話

対話とは、会話の仕方の一種として語られることが多い。議論や討論、おしゃべりに並ぶものとして、対話という行為はしばしば位置付けられる。例えば、物理学者でもあり、思想家でもあるデヴィッド・ボーム(1917 – 1992)は、著書「ダイアローグ」において、対話と議論を以下のようにわけて説明をしている。

ダイアローグ(dialogue)
「logos」とは、「言葉」という意味。「dia」は「〜を通して」という意味。この語源から、「意味の流れ」というイメージが生まれてくる。グループ全体に一種の意味の流れが生じ、そこから何か新たな理解が現れてくる行為である。
ディスカッション(discussion)
「打楽器(percussion)」や「脳震盪(concussion)」と語源が同じ。これには「物事を壊す」という意味がある。ディスカッションは分析という考え方を重視しており、誰かが勝つことを目的としている。

ここでは、実際に行われている会話の特徴を切り口として、分類して説明している。

「対話」は、会話を通じてそこにいるメンバーの間で「意味の流れ」が生じることだといっている。言葉を交わし合うことを通じて、各々が持っていた物の見方や意見が変容し、その結果として新たな理解や意味がうまれてくる。そういった会話の仕方を「対話」と呼んでいる。

また、「議論」に関しては、語源を参考にしながら「物事を壊す」という意味を引用している。分析、分割していく思考の仕方であり、その結果何が論理的に正しいのかといった「勝ち負け」がうまれてくる。

ここでいう「対話」と「議論」の違いは、共有の理解・意見を生み出していくか、誰の意見を正しいとするかといったところにある。

ボームは、わかりやすく行為のレベルにおいての対話についてこのような定義づけをしているが、彼の著書を踏まえても対話は単なる行為にとどまらず、ひとつの思想であると言える。

思想であることを見ていくにあたって、ボームから離れて他の対話の思想家などの論を参照してみる。例えば、ロシアの思想家、文芸批評家であり、対話理論・ポリフォニー論の創始者であるバフチン(1895 - 1975)は、ロシアの古典作家であるドストエフスキーの小説に「ポリフォニー性(多声性)」という考えを見出した。以下は『ドストエフスキーの詩学』からの引用である。

「それぞれに独立して互いに溶け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴」(Bakhtin, 1963)
「それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである」(Bakhtin, 1963)

これは、「対話」という会話の前提にある考え方であると言える。それぞれに独立して互いに溶け合うことはないが、それらは一つの全体としての調和をなしている。そういった個と全体が共存している状態、いわば「多様性の共存」を大切にする考え方が、対話の前提にはあるのである。

このような前提が大切にされるからこそ、結果的に各々の声が大切にされ、全体としてのまとまり(調和や一体感)がうまれる会話が起こっていくのではないだろうか。

そのため、裏を返すといくら傾聴や応答といった「対話的な振る舞い」をしていたとしても、こういった思想が前提にない限り、その行為の意味は違うものとなり、対話としては成り立たないのである。

対話とは、技術ではなく、思想である。「多様性の共存」を大切にする思想があるからこそ、結果的に対話的な行為やコミュニケーションがうまれてくるのである。

こういった対話の根底にある「多様性の共存」といった思想の部分に着目してみると、昨今話題になっているティール組織、禅・マインドフルネスなども同じ部分を共有しているように思える。これからも各領域において、「多様性の共存」を前提にした具体的方法や施策が増えてくるのかもしれない。

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