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職業人としての柿本人麻呂

職業人としての柿本人麻呂
官人柿本朝臣人麻呂の職務と官位

 ここで、大宝から慶雲年間ころの人麻呂の官職について一つの可能性を提示します。それは、人麻呂は死亡時には長門守だったのではないかです。
 さて、和銅年間より少し前の大宝二年(七〇二)正月に、従四位上の大神朝臣高市麻呂が長門守に任じられました。そのときの歌が万葉集にあります。
 
大神大夫任長門守時、集三輪河邊宴謌二首
標訓 大神(おほみわ)大夫(まえつきみ)の長門守に任(ま)けらえし時に、三輪川の辺(ほとり)に集ひて宴(うたげ)せる歌二首
集歌一七七〇
原文 三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也
訓読 三つ諸の神の帯ばせる泊瀬川水脈し絶えずはわれ忘れめや
私訳 三諸の神が帯のように美しく流れる泊瀬川の流れが絶えないように、私は貴方を忘れることはありません。
 
集歌一七七一
原文 於久礼居而 吾波也將戀 春霞 多奈比久山乎 君之越去者
訓読 後れ居にわれはや恋ひむ春霞たなびく山を君し越えいなば
私訳 こちらに居残っている私はすぐに貴方を恋しく思うでしょう。春霞が棚引く山を貴方が越えて行ってしまうと。
 
大神大夫任筑紫國時、阿倍大夫作謌一首
標訓 大神大夫の筑紫国に任けらえし時に、阿倍大夫の作れる歌一首
集歌一七七二
原文 於久礼居而 吾者哉將戀 稲見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓
訓読 後れ居にわれはや恋ひむ稲見野の秋萩見つつ去なむ子ゆゑ
私訳 こちらに居残っている私はもう恋しく思います。雷丘の稲見野の秋萩を見ながら去っていくだろう貴方のために。
 
 ところが、続日本紀の記事によると、翌年の大宝三年(七〇三)六月に大神朝臣高市麻呂は左京大夫に任じられています。そして、この時、兼務を意味する「兼」の肩書がありませんから高市麻呂は左京大夫への任官以前に長門国守の職は解かれていたと考えられます。つまり、どうも、高市麻呂は長門国に赴かなかったようです。
 その長門国への赴任をしなかったことやすぐに長門国守の職を解任されたと推定される経緯については、次の『懐風藻』の高市麻呂の詩から理由を推測することができます。この懐風藻に載る高市麻呂の詩はその漢詩の内容から左京大夫時代のもので行幸従駕の時の歌と思われ、詠われた時期としては慶雲二年(七〇五)三月の文武天皇の倉橋離宮への行幸が考えられます。
 
従駕 応詔 一首
臥病己白髪 病に臥してすでに白髪
意謂入黄塵 意に謂ふ 黄塵に入らんと
不期遂恩詔 期せずして恩詔を遂ひ
従駕上林春 駕に従う 上林の春
松巌鳴泉落 松巌 鳴泉落ち
竹浦笑花新 竹浦 笑花新たなり
臣是先進輩 臣はこれ先進の輩
濫陪後車賓 濫りに陪す 後車の賓
 
 この漢詩で「臥病己白髪」と詠いますから、高市麻呂は長門国守に任じられた後、すぐに病気に罹ったために長門国への赴任が出来なかったと思われます。本来、任命された者がその疾病などの理由で赴任が出来ない場合は、律令の規定では任命から六ヶ月目以降に後任を選定することになっています。一方、この規定に対して、大宝二年(七〇二)正月の高市麻呂の任官記事以降、和銅元年(七〇八)三月の従五位上引田朝臣尓閇の長門守への任官までの約五年半に渡って後任の任官者の記事が見えません。ここで、この猶予期間を除いた五年間は、ほぼ当時の正規の任官期間に相当します。つまり、正史に載らない代理の選任があったと窺わせます。天武天皇の時代から、地方官でも陸奥守と長門守は国防の観点などから職級は特別職で一般の国守より上級官位の者が任官される規定になっています。従って、防衛や財政上の観点からも長期に渡って特別職である長門守の不在はなかったと推定されます。
 ここで、集歌一七七二の歌と季節は違いますが、集歌一七七一の歌に対する応答歌であることから、長門守赴任にかかわる送別歌と思われます。すると、集歌一七七二の歌の標に「大神大夫任筑紫國時」とあるように、当時、長門守に赴任するときは筑紫国経由だったと考えられます。長門国庁に行くのに豊前国企救の草野津(かやのつ)で上陸して筑紫(遠賀)経由としますと、長門国の国庁は穴門(現在の下関)にはありません。国庁は、日本海の韓半島を睨む阿武郡か大津郡にあったと思われます。穴門に移るのは、平城京時代に朝鮮半島及び唐との緊張関係が緩み、長門守の代わりに鋳銭司が設置された頃と推定します。国際緊張下での新羅や唐に対する防衛ラインとしては、九州太宰と山陰阿武(大津)の位置が軍事的にふさわしいと思います。ただ、国防の重要性が薄れ、また国営の銅鉱山開発も軌道に乗っていれば、長門守の重要性が国防から鋳銭事業に軸足を移したのかもしれません。それで後任の任官者の官位が鋳銭司に相当する従五位上であり、さらには長門守が一時廃止され、鋳銭司が置かれる遠因になったと考えられます。
 さて、人麻呂=佐留とした場合、当時の人麻呂(佐留)の官位は従四位下ですので、特別職である長門守の任官位に相当します。和銅元年(七〇八)三月十三日に後任に引田朝臣尓閇が正式に決まったとしますと、老齢な人麻呂は故郷が恋しくて直後の和銅元年三月中旬には上京したのではないでしょうか。少し時代は下りますが、続日本紀 天平五年(七三三)四月五日の記事によると、天平三年からの規則では国司の交代時には前任者から後任者に事務を引き継ぎ、後任者は前任者に職務を解く解由状を交付することになっていますが、勝手に前任者は帰京してしまうとあります。つまり、天平三年以前には国司の事務引継ぎは正式な制度にはなっていなかったようです。そこで、そうした引継ぎ慣行がなかった上で、和銅元年三月十三日に奈良の都で後任の辞令が発布されるとの事前通告があったとすると、任が切れる和銅元年三月十四日以降では人麻呂は自由に帰京することが可能になります。戸田の柿本神社と阿武の油谷八幡人丸神社の縁起を踏まえると、同年三月下旬頃に筑紫経由で人麻呂は上京しようとしたのではないでしょうか。
 以上から推測に憶測を重ねると、三神社の縁起などから人麻呂は大宝年間から慶雲年間にかけてのある年に長門国大津郡に国司として赴任し、その後の和銅元年三月十八日に任期満了による帰京の途中に海難事故に遭い、石見国美濃郡戸田の沖合で水死したと考えられます。
 

柿本一族と飛鳥池生産工房

 現在の考古学の研究成果によると、飛鳥の地に天武天皇時代頃から官営の飛鳥池生産工房が営まれていました。飛鳥池生産工房遺跡から発掘された破棄原材料や半製品から推定して、金・銀・宝石・ガラス玉・真珠などを使用して宮中儀礼、官制大寺や皇族の使用する宝飾品が生産されていたと推定されています。また、同遺跡からは日本最初の貨幣となる富本銭とその鋳造作業場が発掘されています。さらに、同時期、隣接する川原寺の寺院工房遺跡調査から鉄及び銅製品の鋳造やガラス玉の製造などが行われていたことが確認されています。
 ここで、日本書紀 天武十年(六八一)三月に「而試發鼓吹之聲(試に、鼓吹の声を発したまう)」の記事が見えます。この記事では試作品の試験の感じがしますから、このころの飛鳥池生産工房は生産の初期段階で、まだ、本格的な金属鋳造加工までには到達していないと思われます。飛鳥池生産工房での本格的な銅製品や銅銭生産は、「今より以後、必ず銅銭を用いよ」の記事が載る天武十二年(六八三)四月まで、待つ必要があるのではないでしょうか。一方、天武十二年四月の記事からは、このころに飛鳥池生産工房で銅銭を大量に鋳造する技術と生産工程が確立したことが推測できます。
 ところでこの官営の宝飾品等の生産工房の責任者は誰でしょうか。関係する部署として宮内省配下の木工寮、主殿司、鍛冶司や筥陶司、大蔵省配下の典鋳司や漆部司、また、令外の鋳銭司等が考えられます。記録によると後年の河内鍛冶が木工寮所属ですから、やはり、宮内省配下の木工寮鍛冶司が中心的な位置を占めると考えるのが良いと思われます。律令規定では木工寮の鍛冶司の官位は正六位上(大山上・中)相当官です。その下の鍛冶佑の官位は従七位下(小山中・下)相当官です。逆にその上司は頭(小錦下相当)・少輔・大輔となります。参考として、当時において民部省配下に入ると思われる臨時の官職である鋳銭司が頭相当官で、その官位は従五位下(小錦下相当)です。
生産物の目的から、この官営の飛鳥池生産工房の責任者は新規渡来系の職人・工人や従来の大和の職人・工人を使い、世界的にも最新のファッション・宝飾品を生産する職務であり、かつ、皇族や渡来僧侶の要求にも個別に応える必要があります。また、生産物を国家儀式に使用しますから国際派の芸術家としてのセンスも必要となります。さらに、装身宝飾品を生産することから皇族とは日頃接する機会が多々あったと思われます。特に、女性皇族とは頻繁に会う機会が多かったのではないでしょうか。その一方で、生産技術者として当時の最先端技術である高温溶融炉の設置・運営能力が要求されます。当時の化粧品類もまた工房で製造・調整する製品の一つです。
 つまり、使用する職人や技術者の関係上、新羅・百済系言語が判り、さらに渡来系僧侶の示す絵で生産する宝飾品や仏具のイメージが出来、さらに皇族女性にはアクセサリーのデザインをアドバイスし、また、同時に最新鋭の工場の設置運営が出来る人物です。このような要求人物像において責任者となる人物は、天武天皇の人材起用の方針と姓(かばね)の制度が残る時代ですので、大和の金属加工関連の氏族の出身で、ある程度の氏族の身分(朝臣や宿禰級)でなければいけません。すでに見てきたように、金属加工にかかわる祭神を持つ和珥族の柿本臣は有力な候補となると考えられます。その柿本臣の氏上は朝臣の姓を持ち、小錦級の官職に就く格を有します。
 柿本朝臣佐留が、天武十年十二月に小錦下=頭相当官職(従五位下:散位でなければ当時の官位と職階から何らかの職の長官級人事になる)に任じられて、すぐに飛鳥池生産工房で本格的な銅鋳造作業が始まります。そして、約一年半後の天武十二年四月の詔に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とありますから、これより先にある程度の流通量を確保するだけの数量をもって銅銭の鋳造・生産が完了していないといけません。今日の生産管理の要請としては、遅くとも同十一年の早い時期に流通貨幣としての銅銭鋳造が開始されていると推定できます。
 天武十年十二月の柿本朝臣佐留の小錦下への叙任のときに、同時に小錦下に叙任された他の人たちについては別に検討しますが、柿本朝臣佐留以外の有力な該当者は田中朝臣法麻呂です。しかしながら、その彼は話題とする期間に伊予国だけでなく四国全体をも管轄する伊予国守として赴任していますので、実務官僚系の官僚である柿本朝臣佐留が最有力候補として残ります。
 ここで、少し穿った考えをしますと、天武十年三月頃に飛鳥池生産工房での銅鋳造の技術的な目鼻が立ち、天武十年十二月の官僚人事で律令貨幣経済体制への移行が決定したのではないでしょうか。自足自給や物々交換から貨幣経済への移行は国家的大事業ですし、大宝律令の本となった飛鳥浄御原令の準備が始まったのも、この頃です。人麻呂は高市皇子の挽歌を詠った姿からも持統天皇時代には太政大臣の職を執った高市皇子のブレーンとも推定されていますから、当時、左大臣である高市皇子を中心とした新政府の技術系の重要官僚として柿本佐留=人麻呂が入閣しても不思議ではありません。
 万葉集に目を向けますと、持統四年(六九〇)の紀伊御幸に同行した人麻呂は、次の持統六年(六九二)の伊勢御幸には同行していません。この状況から人麻呂は持統天皇に忌諱され、宮廷から追放された。そして、この時期から人麻呂の追放・放浪が始まるとする人もいます。私はそうではなくて、別の重要な任務があったから同行できなかったと考えます。それは、その後の人麻呂が詠う高市皇子や明日香皇女への挽歌の存在が引き続き朝廷での安定した地位にあった状況を説明します。また、『萬葉集釋注』で伊藤博氏は持統八年(六九四)に大宰府で亡くなられた大宰師河内王に対して手持女王が詠う挽歌三首には人麻呂の匂いがあるとします。どうも、この葬儀の時に人麻呂は飛鳥から大宰府まで朝廷の代表として賻物を携えて赴き、その葬儀に参列したと思われます。つまり、万葉集では持統天皇紀を通じ人麻呂は政府中枢にその姿を見せ続けていることになります。従いまして、一部の人が指摘するような持統六年頃に朝廷からの追放があったと云う事実は確認できません。
 ではなぜ、持統六年の伊勢御幸には同行していないのでしょうか。ここで現実の歴史と実務の世界から当時の都の状況を眺めてみます。佐留=人麻呂とし、その上で飛鳥池生産工房の責任者であったと仮定します。すると、政策実行の実務から、その理由が直ぐにわかります。それは持統八年(六九四)十二月に行われた太政大臣高市皇子の指揮下による藤原京の落慶・遷都の事業です。そして、それが答えです。
 藤原京は、現在の発掘作業の結果、平城京とほぼ同規模、もしくは、それ以上の規模で建設された王都であったと判明しました。この新都造営で使う金具や装飾品は、当然のことですが、それを購入する先がありません。つまり、多くは飛鳥池生産工房で製造する必要があります。新都造営は天武十三年頃から始められたようですが、造成地の地鎮祭は持統五年(六九一)十月に、宮殿自体の地鎮祭は翌六年五月に行われています。六年正月には「天皇觀新益京路」との記事があり、既に宮殿周囲の地盤整備と幹線大路の道路建設は終わっています。次いで八年(六九四)十二月に落慶・遷都としますと、その宮殿工事の最盛期は持統六年後半から同八年前半です。そのような時に、人麻呂が飛鳥池生産工房の責任者としますと、天皇の伊勢御幸に同行するほどの余裕はなかったものと考えます。
 ちなみに平城京は、慶雲四年(七〇七)に準備作業を開始して、和銅元年(七〇八)二月の新都造営の詔を経て、和銅三年(七一〇)三月の遷都までの三年の歳月で完成しています。この平城京建設においては、一部、資材は藤原京のものを解体・転用しています。一方の日本最初の本格的な藤原京の新都造営では、すべてが新造であったと思われますので、もう少し年月がかかったと考えられます。従いまして、飛鳥池生産工房の責任者であった人麻呂は、持統六年頃には遣唐使や遣新羅使以外、誰も見たことのない本格的な王都の資材を準備しなければならないのですから、現代人でもびっくりするくらいに働いていたのではないでしょうか。そのため、持統六年の伊勢御幸には同行が出来なかったと考えます。
 一方、この推測から人麻呂は藤原京の造営時代、彼の役職は宮内省配下の木工寮の頭(従五位上相当)であったと推測します。


天武十年十二月の柿本朝臣佐留の叙位に関して

 天武天皇は、天武十年(六八一)十二月に田中臣鍛師、柿本臣佐留、田部連国忍、高向臣麻呂、粟田臣真人、物部連麻呂、中臣連大嶋、曽禰連韓犬、書直智徳に小錦下(従五位下相当)の位を授けています。日本書紀の記事に従うと、当時の政府にはほとんど高級行政官僚がいません。皇族による皇親政治が行われていたのでしょうか。ただし、日本書紀自体が天武朝での官僚制度について沈黙をしていますから、嵯峨天皇の詔に従い弘仁四年から十年にかけて日本紀を日本書紀に編纂し直したときに、高市皇子やそれに関係する人々の官僚に関する記事が削られた可能性はあります。
 いずれにせよ日本書紀によると、この時、九人の高級官僚が叙任されたのです。この叙任された九人の中で、よく分からない人物が田中臣鍛師、柿本臣佐留と田部連国忍の三人です。高向臣麻呂、粟田臣真人、物部連麻呂や中臣連大嶋の人たちは、天武・持統天皇の時代の代表的な政治・外交の高級官僚となる人物です。曽禰連韓犬と書直智徳の二人は、渡来系の氏族で治水や水田開発などに関係し、天武天皇と壬申の乱でも関係のある人です。さて、田中臣鍛師、柿本臣佐留と田部連国忍との三人は、どんな理由で、当時としては破格の小錦下(従五位下相当)の位を授けられたのでしょうか。
 
田中臣鍛師
 田中臣は、高市郡田中(橿原市田中)を本拠とし、蘇我稲目から分かれた氏族とされています。
 さて、田中臣鍛師とほぼ同時期の人に、直広肆(従五位下)の田中朝臣法麻呂が天武天皇の崩御を告げる新羅大使に持統元年(六八七)に任命されています。ただ、実際の出発は持統二年だったようです。その田中朝臣法麻呂は持統天皇五年には伊予国司の役職に在り、白銀を伊予国の産物として献上しています。また、文武三年(六九九)に従五位上で越智山陵(斉明天皇陵)の修造にも任じられています。田中臣鍛師が、もし壬申の乱の関係者の場合であれば、生前に小錦下の位を受けていますので、通常であれば、その死亡に関して何らかの記載が『日本書紀』や『続日本紀』に見られるのですが、それはありません。
 一方、文武二年(六九八)六月に死亡時の記事として、直広参(正五位下)田中朝臣足麻呂に遺贈位直広壱(正四位下)が送られています。田中朝臣足麻呂は、壬申の乱のおり天武天皇の湯沐(ゆの)令(うながし)で天武天皇側の兵・食料などの後方支援を担い、また倉歴の道の守備を行った人です。
 これらを推測すると、田中朝臣法麻呂と田中朝臣足麻呂とは兄弟または親族と思われ、田中臣鍛師と田中朝臣足麻呂とは同一人物と考えられます。およそ、鍛師は足麻呂の字名(または仮名)と思われます。
 なお、田中臣の一員である鍛師の、その「鍛師」の名から推測して、持統天皇年間に伊予国司として田中朝臣法麻呂が白銀や白鑞(しろなまり)を産物として献上した背景に、田中臣が鍛師となる部民を率いていた可能性があります。
 
田部連国忍
 田部連国忍については、物部氏の分れとされていますが、まったく分かりません。その「田部」の氏族の名称から、天皇家の屯倉(みやけ)に属する屯田(みた)の田部(田畑を耕作する農民)を管理する一族と思われます。死亡に関しての記事も無いので、壬申の乱での功労者でもないと思われます。あるいは、農地の開墾・維持管理等の作業に従事する関係から、土木工事の技術者や鍬・鋤などの鉄製工具の管理を行う立場であるので、新都建設の造成工事に係わる人物でしょうか。
 天武天皇十一年三月に新都予定地の調査が行われており、参加者は「小紫(従三位)三野王及び宮内官大夫(五位以上を意味する)達」となっています。藤原京は香具山西方の湿地帶に対して大規模な干拓・埋め立てを行うような大規模な造成工事を行い完成していますので、この宮内官大夫とは田部連国忍のことでしょうか。実際、彼のことはまったく判りません。
 
柿本臣佐留
 柿本臣猿は和銅元年(七〇八)四月に従四位下で「猿」の良字となる「佐留」の名で死亡しています。中級貴族の家系からすれば順調な昇任です。彼も田部連国忍と同様に、死亡に際して壬申の乱の功労の記事がありませんから、壬申の乱の功労で小錦下の位を受けたのではないと思われます。およそ、実務者としての叙任だったと思われます。柿本臣佐留は和銅元年の段階では従四位下の高官ですが、その彼が何に携わった官僚なのかは正史からは不明です。大宝律令や日本紀の編纂作業には関与していないようですから法務官僚ではありませんし、神道や仏教関係の官僚でもありません。また、天皇秘書官のような立場では、同時代人として、内臣である藤原不比等がいますので宮廷関係でもないようです。
 一方、今までに考察したように柿本臣や小野臣は祭神などからみて鉄や銅の製錬に深く関わる氏族です。それも時代性を踏まえて、百済・伽耶の滅亡を契機とする大量の渡来人から最新鋭の技術を学んだ倭鍛冶集団と思われます。また鉄と銅は、その製錬炉の構造や製錬行程が違いますので、柿本臣は銅製錬を得意とし、小野臣は製鉄を得意とするように住み分けられていったのではないかと考えられます。なお、田中臣鍛師と同じように、柿本臣猿は柿本臣佐留であり、また、柿本臣人麻呂は佐留の字名(または仮名)として、全て同一人物と推定することは可能です。
 

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