墨子を読む 非攻
墨子 非攻 現代語訳
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠
墨子の思想への理解を進めるために、非攻上篇・中篇・下篇の現代語訳だけを紹介します。
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
《非攻上》:現代語訳
今、ある人がいて、その人は果樹園に入り、その桃や李を盗む、衆はこれを聞いてその行いを非とする。上の者で政治を行う者はこの報告を得て、この者を処罰する。これはどういうことだろうか。それは他人に損害を与え、自分の利とするからである。人が犬・猪・鶏・豚を盗むような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人が果樹園に入って桃や李を盗むより罪の重さは甚だしい。これはどういうことだろうか。人に損害を与えることがいよいよ多いことにより、その仁でないことは甚だしく、その罪はますます重いからだ。人が厩舎に入って、人の馬や牛を盗み取るような者となっては、それは仁では無く、なおさら、人の犬・猪・鶏・豚を盗むより罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。つまり、人に損害を与えることがますます多いことは、その仁ではないことは甚だしく、罪はますます重い。罪の無い人を殺し、その衣服を奪い、戈や剣を奪い取るような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人の厩舎に入り馬や牛を盗み取るよりも罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。このように人に損害を与えることがますます多いことは、その仁でないことは甚だしく、罪はますます重い。このような場面では、天下の君子は、皆、そのことを知ったのちにこのことを非とし、これを正義では無いと言う。今、大いに国を攻めることを行うに当たっては、他国を攻めることを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略を正義と言う。このことは正義と不正義との区別を理解していると言うことが出来るだろうか。
一人を殺すとこれを不正義と言い、必ず一人を殺した刑罰が有るが、もし、この説明を使うとするならば、十人を殺すと不正義は十倍となり、必ず十人を殺した刑罰があり、百人を殺せば不正義は百倍となり、必ず百人を殺した刑罰が有るだろう。このことはつまり、天下の君子は、皆、これを理解して、そしてこの殺人の行為を非とし、これを不正義と言う。今、大いに不正義を行い、国を攻めることは、つまり、攻略で人を殺すことを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、これを正義と言う。考えると、このことは不正義を理解していないのだ。そのような訳で、他国を攻略し、それが正義だとした言葉を書いて後世に遺す。もし、その他国を攻略することの不正義を理解していれば、いったいどのような理屈により、その他国を攻略した不正義を書き、それを後世に遺すだろうか。
今、ここにある人がおり、ちょっと黒を見て言うには、『黒』、じっと黒を見て言うには、『白』と。すると、このことからするとこの人は白と黒の区別を知らないのだ。ちょっと苦みを舐めて言うには、『苦い』、たっぷり苦みを舐めて言うには、『甘い』と。すると、きっとこの人に対して甘いと苦いとの区別を知らないとするだろう。今、小さく非を行えば、すると、それは非の行いだと理解する。大いに国を攻める非を行えば、すると、それを非の行いだと理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略は正義だと言う。ここに正義と不正義との区別を理解していると言えるのだろうか。このことにより、天下の君子の、正義と不正義との区別の乱れを知るのだ。
《非攻中》:現代語訳
子墨子の語って言われたことには、『古代の王公大人が、政治を国家に行う者は、まことに名誉の基準を明確にすることを行い、賞罰にあっては、刑事と政治に過失がないことを願っていた。』と。このことにより、子墨子が言われたことには、『古代の者に語録があり、計画しても結果が得られなければ、既往のことから将来のことを理解し、発見により隠蔽を知る。計画することがこのようであれば、結果を得て、その物事を理解するべきなのだ。』と。
今、軍の動員はしきりに行われ、冬の行軍は寒さを恐れ、夏の行軍は暑さを恐れる。つまり、冬と夏はこのことから行軍は行うべきではない。春の動員は民の耕作や果樹の生業を止め、秋の動員は民の収穫の生業を止める。今、わずかに一季節の生業を止めても、それでも百姓は飢えと寒さに凍えて死ぬものは数えきれないほどだ。今、仮に軍の動員の利を計算してみると、弓矢、旗印や陣幕、鎧や盾・大盾を揃えて出撃しても損耗・破損して持ち返れないものは数えきれない。また、矛や戟、戈や剣、馬曳戦車を揃えて出撃しても砕け折れ損傷して持ち返れないものは数えきれない。さらに、その従軍する牛や馬は肥えた姿で行くが、痩せた姿で返り、また、従軍し死亡して返ってこない牛や馬は数えきれない。さらに、戦場への道程は遥かに遠く、糧食は兵站が途絶えて補給が続かず、従軍する百姓で死亡する者は数えきれない。さらに、百姓たちの故郷での暮らしは不安定で、日々の食事は一定ではなく、端境期の飢えと収穫期の飽食とがあるはずが季節に寄らずに飢えが現れ、百姓が行軍の道中に疾病に遭い死亡する者は数えきれない。軍勢を失う場面の多いことは数えきれなく、軍勢を失い全滅することは数え切れない。そして、里で祀られるはずの鬼神がその祀りを行うはずの神主を失うことは数えきれない。
国家が政令を発して、民の財産を奪い、民の利を無駄にする、このようなことは甚だ多い。そうではあるが、どのような理由で戦争を行うのか。言うことには、『我々の戦勝の名誉を誇り、さらに占領により利を得ることを計画する。その利のために戦争を行う。』と。子墨子の語って言われたことには、『その自分たちが勝ったことの利を確認してみると、利用すべき利点は無い。』と。その戦勝で得るものを確認すると、反って失うことの方の多いことに及ばないだろう。今、三里四方の城、七里四方の城郭を攻めるとする。これを攻撃するに精兵を用いず、それも敵を殺すこともしないで、そのままに得ることが出来るだろうか。人を殺すこと、多い場合は必ず万の数字を数え、少ない場合でも千の数字を数える。その後に三里四方の城、七里四方の城郭を獲得することが出来るだろう。今、戦車の動員力が万ほどの大国の内には、廃城の数は千を数え、戦争に勝たなくても広く地味が肥えた土地への入植が出来るところの数は万を数え、戦争に勝たなくてもその土地を開拓できる。そうであるならば土地はあまり有ることがらで、士や民は不足することがらだ。今、士や民の死を尽くし、下の者が上の者を批判することを厳密に取り締まり、それにより空き城を奪い合う。つまりこのことは、足りないものを捨てて、そして余っているものを大切にすることなのだ。政治を行うことがこのようであれば、それは国が行うべき責務では無いのである。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『南、すなわち荊や呉の王、北、すなわち斉や晋の君が、始めて天下に諸侯として封じられた時、その領地の四方の大きさは、まだ数百里にも達しなかった。人(平民)や徒(農民農奴)の人口は、まだ数十万人にも達しなかった。攻戦の事績により、土地の広さは数千里にも広がり、人徒の人口は数百万人にも達した。このような訳で攻戦をしてはいけないとは決めつけられないのだ。』と。子墨子の語って言われたことには、『四つや五つの国は多分、利を得ると言えても、それでも攻戦は国が行うべき道として取ってはいけないと言わざるを得ない。例えれば、医薬は人の病とともにあることを当然とするようなものだ。』と。今、ここに医師がいるとしよう、その良き効能の薬を調合し、天下の病に罹った者のところに行ってこれを万民に処方すれば、万民はこれを服用するだろう。もしただ、四、五人だけに処方して治癒の利を得ただけとするなら、それではこれは万人に行うべき薬では無いと言うだろう。そのため、孝行の子はその親に服用させず、忠臣はその主君に服用させないのだ。古代の、国を天下に封じられた、その上古の諸侯の事績はその伝説を耳で聞き、近世の諸侯の事績は目で見ることがらで知っているが、攻戦によって滅びた者は数えきれないのだ。どのようなことでそのことを知ったのか。東方に独立した莒という国があったが、その国は甚だ小さく、大国の間に挟まれていたのに、それでも熱心には大国への儀礼を行わなかった。大国も莒国のその外交の姿勢により莒国への愛しみも利することもしなかった。そのため、東は越の人がその領土を狭め削り取り、西は斉の人が領土を併合して領有した。莒国がこの斉国と越国との間に滅んだ理由を考えると、これは攻戦によるものだ。南は陳国や蔡国と云う知られた国といっても、その国が呉国と越国の間に滅んだ理由は、また攻戦によるものだ。このために子墨子が語って言うことには、『古代の王公大人は、まことに領土を得ることを願い、領土を失うことを嫌い、安定を願い、危険を嫌う。それならば攻戦は非としないわけにはいかないのだ。』と。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『それはその国の民衆を収め用いることが出来なかったので、そのために滅んだのだ。我々は上手に我々の民衆を収め用いる。この民衆を使って天下に攻戦すれば、だれが敢えて服従しないだろうか。』と。子墨子が語って言われたことには、『貴殿は、上手に貴殿の民衆を収め用いるとするが、貴殿はそれでも古代の呉闔閭ではないでしょう。古代の呉闔閭は民衆を訓練すること七年、呉闔閭は甲冑を身に着け兵卒を指揮し、三百里を走って宿営し、注林に駐屯し、冥隘の街道に出撃して、柏挙の地に戦い、楚国を誅罰し、そして宋国と魯国とを朝貢させた。夫差の世になって、北上して斉国を攻撃し、汶上に駐屯して、艾陵の地に戦い、大いに斉の人を破り、斉国を大山で平定した。東に向かい越国を攻め、三江五湖を渡り、そして越国を會稽で平定した。九夷、中国全土の国で服従しない国はなかった。このときにあっても、動員を解除せず、孤児にその戦没者した親のことを褒賞せず、群衆に施しをすることはなく、自らその己の力を頼み、その己の功績を誇り、その己の智力を誉め、兵卒の訓練を怠り、そして、姑蘇に臺、観望の塔を築いたが七年たっても完成しなかった。この状況になって、呉の国に夫差への離反する機運が起きた。越王句践は呉の国の上の者と下の者とが互いに与しないことを見て、越の民衆を取り込み、その軍勢で復讐をなし、北の城郭に攻め入り、大内を渡り、王宮を囲み、これにより呉国は滅んだ。
昔、晋国に六人の将軍がおり、その中で智伯より強者はいなかった。智伯は、己の土地は広く、人徒の人口は多くなることを企み、それにより諸侯に対抗することを願い、そこから己の英名を立てようとした。攻戦は速やかで、智伯は己の士の内から剛毅の者を選抜し、皆、舟や車を操る常備軍の衆を列ね、その軍勢で中行氏を攻めてその領土を占領保有した。その企みはすでに成った。また、さらに范氏を攻めて、これを大いに破り、三家を併せて一家としたが、併合は止まなかった。また、さらに趙襄子を晋陽に囲んだ。この状況になって、韓や魏は同盟して相談して語るところに、『古代の言葉に、「唇が無くなると歯は寒い。」と。趙氏が朝に滅べば、我々は夕に滅びるだろう。趙氏が夕に滅べば、我々は朝には亡ぶだろう。』と。詩に言うに、『魚は水中にいなければ、陸は魚にどのような意味があるだろうか。』と。これにより、三人の君主は心を一つにして力を合わせ、門を開き、道の障害物を取り除き、甲冑を身に着け軍勢を興し、韓と魏は外から、趙は内から、智伯を攻撃し、これを大いに破った。
この故事により、子墨子は語って言われたことには、『古代に言葉があって言うには、君子は水を鏡とせず、人に鏡を見る。』と。水に鏡を見れば、顔の形を見、人に鏡を見れば、そこに吉凶を知る。今、攻戦をもって利とすることは、どうして、試みに攻戦を為すことを智伯の故事に鑑みないのか。これからすれば、攻戦を為すことが不吉にして凶であることを、すでに心得て理解するべきだろう。
《非攻下》:現代語訳
子墨子が語って言われたことには、『今、天下が誉め、それを善とすることがらのもの、その善とすることがらとは、いったい、どういうことだろうか。その善とすることがらは、上には天帝の利に適い、また、中には鬼神の利に適い、そして、下には人の利に適うがために、それで善とすることがらとして誉めるのか。それとも、善とすることがらが上には天帝の利に適わず、また、中には鬼神の利に適わず、そして、下には人の利に適わないとしても、それでも善とすることがらとして誉めるのか。下天の愚かな人なら理解させられるとしても、その者でもきっと言うだろう、善とすることがらは、上には天帝の利に適い、中には鬼神の利に適い、そして、下には人の利に適うから、それで善とすることがらとして誉めるのだ。』と。
今、天下の同じく正義とすることがらのものは、聖王の法である。今、天下の諸侯の多くの皆は、敵の攻伐を免れ、近隣を併合してその国君を兼ね、そしてこの有り様を誉めて正義とする名目があるが、果たして、その実態を理解しているのか。これを例えれば、盲目の人に、白と黒の名を命じて、そしてその命じた物を白と黒の色ごとに分別することが出来ないのと同じだ。つまり、区別が出来ると言えるのだろうか。このようなことで、古代の知識者が天下の為に計ったことには、必ず慎重にその事業の正義を熟慮し、そしてその後に行動を起こし、このようにして実行すれば事業への疑念は無い。速やかに成功の願いは通じ、その希望することがらを得て、そして祝福する天帝鬼神の振る舞いは百姓の利に従う。つまりこれが知識者の計る統治の道なのだ。このことから、古代の仁なる人で天下を保つ者は、必ず大国となるための攻伐を為す説に反対し、天下の和を第一にし、四海の内を統治し、そして天下の百姓を率い、生業に努めることにより天の上帝や山川の鬼神に臣事した。この有り様は、人を利することが多く、成功はそれにより大なのだ。このことにより、天はこのような国政を賞賛し、鬼神はこのような国政を富まし、人はこのような国政を誉め、このような国政を為した者は貴いことには天子となり、天子の富は天下にあり、その高名は(上帝鬼神と並び)天地に参列し、今に至るまで廃ることはない。これはつまり知識者の計る統治の道である。(聖王が)先の時代の天下を有した、その理由なのだ。
今、王公大人、天下の諸侯はそうでは無い。必ず皆はその臣下から武勇の士を選抜し、皆はその兵舟戦車を操る兵卒を列ね、堅固な甲冑や鋭利な兵器を作り、それにより進軍して罪無き国を攻伐する。その国家の辺境に侵入し、その国の果樹や作物を簒奪し、その国の樹木を伐採し、その国の城郭を破壊し、そしてその城溝や城池を埋め、その国の神饌の犠牲となる動物を盗み取り、その国の祖廟を焼き払い、その国の万民を殺し、その国の老人幼児の生活の支えを覆し、その国の重兵器を捕獲移動し、進撃して敵の城門に兵器を突き刺して、言うには、『攻撃命令に死ぬ者を上等とし、敵を多く殺す者はその次とし、身は傷つく者を下とする。まして、戦列を離れて逃亡するもの者は、その罪は死罪として赦すことはない。』と。このようにして大衆を脅す。さて、敵国を破りその国君を兼ね、敵軍を覆し、その敵国の万民を虐殺することは、それは聖人の業績を乱すことではないのだろうか。考えてみると、このことは天帝を利すると出来るのだろうか。それは天帝の支配する人を使い、天帝の支配する邑を攻める。これは天の民を殺し、神の位を剝奪し、社稷を覆し、その社稷を祀る神饌の犠牲となる動物を盗み取ることだ。つまりこのことは上には天の利に適わない。考えてみると、このことは鬼神を利すると出来るだろうか。それは鬼神の支配する人を殺し、鬼神を祀る神主を滅ぼし、先の時代の王を廃絶し、万民を虐殺し、百姓は離散する。つまりこのことは中には鬼神の利に適わない。考えてみると、このことは人を利すると出来るだろうか。それは人の支配する人を殺し、そしてそれが人を利するとするとは、この有り様だ。また、その費用を考えてみると、民の生業の根本を終わらせ、天下の百姓の財産を使い尽くす有り様は、数えきれない。つまりこのことは下にも人の利に適わないのだ。
今、戦を起こす時の不利を示すものとして、言うことには、『武勇でないこと、戦機に利が無いこと、兵卒が十分に軍事演習をしていないこと、兵員が多くないこと、士と卒とが和合しないこと、城壁が守り切れないこと、敵城を囲んでも長く続かないこと、進撃が速くないこと、攻撃の継続力が強くないこと、人心を束ねる力が堅固で無いこと、友好国の諸侯が疑念を持ち、友好国の諸侯が疑念を持つと敵は調略の可能性が生じること、戦意が衰えることだ。』と。このような不利のものを揃えて、戦争を起こせば、きっと、国家は軍隊を失い、また、百姓は生業の行いを放棄する。
今、試みにその攻伐を行う説を好む国を見てみよう。もし、中規模な紛争を企てるなら、指揮官となる君子や庶民の士の数はきっと千人を数え、それに兵卒となる農夫農奴の数は十万を加え、やっとその後に軍としての作戦行動に足りる。戦役の長いものでは数年を数え、速やかに終わるものでも数か月を数える。そのため、上の者は統治を行うのに時間が足りず、士はその官庁で政務を行うのに時間が足りず、農夫は農作業の時間が足りず、婦人は紡績や織機の作業の時間がたりなり。つまり、このことは、国家は軍隊を失い、また、百姓は生業に努めることを放棄し、そしてまた、その国の馬曳き戦車は疲弊し、陣幕、三軍の武器、武具の備えなど、五分の内の、その一を残し得れば、それは上出来である。さらにまたその軍勢は道路に散り失せ、戦場からの道程は遥か遠くて、糧食では下の者には欠食が続き、兵卒の飲食のとき、雑務係はこの糧食の不足からの欠食による飢えと寒さに凍え疾病となり、そして溝や塹壕の中に転がり死ぬ者は数えきれない。これでは攻伐を行う説を好む国の人に利はなく、天下の害をなすことは大きい。しかるに王公大人は、好んで戦争を行う。つまりこのことは天下の万民を抹殺することを好んでいることなのだ。それでいいのだろうか。今、天下の戦争を好む国、斉、晋、楚、越、もし、この四か国の者に万民の利という意味を天下に理解させれば、これにより、四か国の皆、その国の人口を十倍したとしても、それでもその国の大地を開墾し尽くすことは出来ない。それは人が足りないのに大地が余っているからである。今、また土地を争うことにより、反って人を互いに傷つけ損なう。つまりこのことは足りないものを損ない、一方、余りあるものを積み重ねるようなものである。
今、そのような攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾り、そして、子墨子の説を非として言うには、『攻伐の行為を不正義としても、物事を利するではないか。昔、禹は有苗族を征服し、湯王は桀王を討伐し、武王は紂王を討伐して、この皆は立って聖王となった。これはどのようなことなのか。』と。子墨子の言われたことには、『貴殿は、未だに私の言葉の比類を理解していない。まだ、その理由を明確に理解できていない人なのだ。』と。彼らの行いは、いわゆる、攻伐ではなく、誅罰というべきなのだ。昔、三苗族の時代では大いに天下は乱れ、天は禹王に命じて三苗族を殺させた。妖しい太陽が夜に出て、血が降ること三日、龍は廟に生まれ、犬は市中で慟哭し、夏に水は凍り、大地は裂け地下の黄泉にまで及び、五穀は成熟の時期が狂い、民は大いに恐れた。高陽は玄宮において禹王に命じ、禹王は自ら天からの目出度い命令を受け取り、有苗族を征服した。四方に雷鳴は響き、人面鳥身の神が現れて、瑾を持して侍り、有苗族の吉祥を失わせて、有苗族の軍隊は大いに乱れ、後に遂に有苗族は衰微した。禹王は有苗族を征服し、それにより山川の名を明らかにし、物事の上下を区分し、万物の決まり事を定め、これにより鬼神も人民も間違いを為さず、天下はそれで静まった。これが、禹王が有苗族を誅罰した理由なのだ。夏王朝の桀王の時代に至って、天に酷命があった。日月の運行は乱れ、寒さ暑さは入り雑じって到来し、五穀は枯死し、鬼神は国中に叫び、鶴が啼くことは十日余りであった。天は湯王に鑣宮にて命じ、湯王に夏王朝の天下を治める大命を受けさせた。天は、『夏王朝の徳は大いに乱れ、天はすでに天のその夏王朝への統治の大命を終えさせた。湯王に夏王朝の都に進軍させ、夏王朝を誅罰させ、必ず、汝、湯王を勝たせる。』と。湯王はそこでその軍勢を率いて、進軍して有夏の国境に向かい、天帝はひそかに有夏の城を暴動破壊させた。しばらくして神が来りて告げることには、『夏の徳は大いに乱れる、進軍してこれを攻めよ。我は必ず、汝、湯王を大いに有夏に勝たせる。』と。『我はすでに天命を受け取った。天は、この融に命じて火を有夏の国城の西北の隅に降させた。』と。湯王は桀の軍勢を引き受けて誅罰戦に勝ち、諸侯は薄の地に集まり、天子となる天命の推薦を受けたことを明らかにし、四方を通じて、天下の諸侯で服従しなかったものはいない。つまりこれが、湯王が夏王朝の桀王を誅罰した理由なのだ。商王紂の時代に至って、天は紂王の徳は秩序を保たなくなり、祀りを行っても適切な時期では無かった。夜を日に継いで、十日間、土を薄の地に降らし、支配の印の九鼎は場所を遷し、妖しい婦人は夜に出歩き、鬼神は夜に哭き、女は男装を行った。天は肉を降らし、茨は整備されているはずの国道に生え、紂王はますます自ら放逸をなした。赤鳥は珪を口に含み、周の岐社に下り、言うには、『天は周の文王に命じて殷を討ち、国を治めさせる。』と。泰顛は帰属し、黄河に緑図が現れ、大地には乗黄の神馬が現れた。武王は功業を引き継ぎ、夢に三神を見て、神が言うには、『予はすでに殷の紂王を酒の悪徳に沈め漬けている。出撃してこれを攻めよ。予は必ず、汝、武王を大いにこれに勝たせよう。』と。武王はそこで狂夫、紂王を攻め、商地域の周王朝を覆し、天は武功に天子の印の黄鳥の旗を賜った。武王はすでに殷に勝ち、天帝の予告を成し、もろもろの神を分かちその祀る神主を定め、先王の紂王を祀り、四方の国々に通じ、そして天下に朝貢しないものはなく、つまり、湯王の業績を襲った。これはつまり武王が紂王を誅罰した理由である。もし、この三人の聖王の者をもってこの事業を見れば、戦いはいわゆる攻伐ではなく、誅罰なのだ。
しかしながら、その攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾り、そして、子墨子の説を非として言うには、『貴兄は攻伐を不正義としますが、物事では利になるのではないですか。昔、楚の熊麗は、始め、楚国、睢山の谷間を治め、越王の繄虧は有遽より出でて、始めは越に一領地を封じられ、唐叔と呂尚とは斉と晋とに一領地を封じられた。これらは、皆、その領地の四方の大きさは数百里だけだった。今、国々を併合することによって、天下を四分して、これを領有する。これはどういうことなのか。』と。子墨子の言われたことには、『貴殿は未だに私の言葉の比類を理解していない。まだ、その理由を明確に理解できていない人なのだ。』と。古代の天子が始めて諸侯をそれぞれの領地に封じたとき、その封地の数は万に余りあった。今、国を併合することにより、万国に余りあった国の皆は滅亡し、そして四か国が独り立つ。これを例えると、医師が万人に余りある人々に薬を処方して、そしてただ四人だけが治癒したようなものだ。つまり、この医師を良医と言ってはいけないのだ。
しかしながら、その攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾って言うには、『私は、金や宝玉、子女、領土が足りないとするのではない。私は正義の名の下に天下に立ち、徳をもって諸侯が従うことを願っているのだ。』と。子墨子の言うことには、『今、もしそのように、正義の名の下に天下に立ち、徳をもって諸侯が従うことを求める者がいるのなら、天下はこの者に服することを求めて、正義の名の下に天下に立って、諸侯が従うことを待つべきだ。天下を統べるために攻伐の手段に拠ることは久しい。例えば、童子が遊びで馬となって足を疲れさせているようなものだ。今、もし信により諸侯と交わり、己より先に天下の諸侯を利する者がいたら、大国に不正義はあるだろうか。きっと、己の国と同じように小国を憂い、大国が小国を攻めるだろうか。きっと、己の国と同じように小国を救い、小国の城郭が不完全ならば、これを修理し、衣服や食料の補給が途絶すれば、きっと、補給を委ね、神祀りの幣帛が足りなければ、きっと、幣帛を提供して神祀りを共にするだろう。このようにして大国が小国に功を成せば、きっと、小国の国君は感謝するだろう。人が攻伐に疲れ、その間に己が休息すれば、きっと、己の軍隊は強いであろう。政治が寛大で恵深く、己の国の治世の緩みを引き締めれば、民は必ず移り住む。攻伐に変えて、己の国を治めれば攻伐の成果よりも必ず利は倍になるだろう。己の軍の費用を計算し、そこから諸侯の諍いを諫めれば、きっと、必ず諸侯の信を得て、利は増すことが出来る。諸侯の諍いを監督するのに正義をもって行い、そして、己が名を正義にし、必ず努力して己の民衆に寛大であり、己の軍隊の振舞は信とさせ、その信なる軍隊で諸侯に軍事支援すれば、きっと、天下に敵はいなくなるだろう。これを諸侯に行うことは、数えきれなくなるだろう。この方法は天下の利であるが、しかしながら、王公大人は理解していても、これを用いない。つまり、これでは天下を利する巨大な責務を理解しないと言えるだろう。』と。
このために子墨子の言われたことには、『今、天下の王公大人居子、まことに天下の利を興し、天下の害を除くことを願うならば、しきりに自らが先に攻伐を行うようなことは、これは実に天下の大いなる害である。今、(君子は、天下に)仁と正義を行おうと願い、上士となろうと願い、上には聖王の道に適うことを願い、下には国家百姓の利に適うことを願う。このためには非攻の説を行うというものを、その大いなる利によりこれを理解しない訳にはいかないのだ。』と。
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