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職業人としての柿本人麻呂

第二章 職業人としての柿本人麻呂
人麻呂と長門国の銅鉱山

 少し、歴史の中から銅銭など銅に関係する話題を紹介したいと思います。
 日本書紀の天武十一年(六八二)四月の記事に「筑紫大宰丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり」と云うものがあります。この記事では新羅や百済からの貢物とは記されていませんから、この「大きな鐘」は国産と思われます。つまり、天武天皇の時代、中期から後期に大宰府で銅製品の鋳造が行われるようになったことがわかります。また、天武十二年(六八三)四月の記事、「今より以後、必ず銅銭を用いよ」に関して、地名や国名の名称がないことや奈良県明日香村の飛鳥池で大規模な官営の鋳造所遺跡が発見されていることから、最初に飛鳥地区で銅銭(無文銭や富本銭)の鋳造が始まったと思われます。ただし、本格的な銅銭鋳造は、和銅二年(七〇九)以降の長門国長登鉱山の開発を受けてのこととなるでしょう。
 また、『古代銭貨に関する理化学的研究 「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析(日本銀行金融研究所)』によると、近年の古代の銭貨の金属分析から七世紀末頃にはすでに銅鉱山が長門国阿武郡(長門市日置や萩市山田青長谷など)の比較的海岸に近い近辺から開発されていたようです。ただ、それらは比較的、小規模な鉱山だったと思われます。日本書紀 天武十四年十一月の条に「儲用の鉄一万斤を、周芳総令の所に送す」の記事がありますが、これは鉱山開発の経費と考えられます。同時期に太宰府にも儲用の鉄一万斤を送っていますが、太宰府は九州全域及び外交の窓口にもなっていますので、もともと経費が掛かります。一方、統治面積として太宰府とは比べ物にならない現在の山口県相当の周芳総令が受け取った太宰府と同等の経費の使い道としては、何らかの大規模開発の用途としか考えられません。それも、水田開墾や対唐への城郭築造ではなく鉱山開発ではないでしょうか。およそ、このころに長門国で何らかの有望な鉱山が見つかったと考えます。その有望な鉱山に次いで内陸山間部での長門国美祢郡の長登鉱山や阿武郡の蔵目喜鉱山の開発が続き、それが、銅銭の全国流通や東大寺の大仏鋳造につながったと考えます。およそ、これらの状況から推測して飛鳥地域や大宰府での銅需要に合わせ、天武年間頃から長門国で本格的な銅鉱山の開発が行われたと考えられます。
 正史においては和銅年間に発見された秩父郡の和銅(自然銅)が政治や鉱物博物学的には有名な出来事ですが、生産量や商業的価値から見たとき、鉱山史からは工業資源としての長門国の長登鉱山や蔵目喜鉱山の開発のほうが重要な事件です。天武天皇時代の銅鉱山は、最近の研究から他に長門国美祢郡秋芳や福岡県田川郡香春岳にも存在したのではないかとも推定されていますし、また、少し時代が下って和銅年間の播磨国の銅銭鋳造には、加古川上流の多可郡の鉱山から銅の供給を受けたと見られます。これらの地域は、共通して輝銅鉱などの熱水鉱脈鉱床が地上に露頭し、海や川へ露出した岩盤やがけ地を調べると発見できるような地形です。巻末資料に示すように日本書紀や続日本紀を点検しますと天武天皇・持統天皇の時代から鉱石の献上の記事が散見されます。百済滅亡後に渡来した大陸や朝鮮半島からの鉱山・金属製錬技術者は、最初、亡命や渡来の玄関口となった福岡県遠賀郡岡垣や宗像市山田方面で銅鉱石等を発見したと思われます。その後、地質が似ている豊前国香春岳、長門国阿武郡、周防国熊毛郡、伊予国宇和郡、播磨国内陸の六甲山系や丹波高原へと探査の範囲を朝廷の命令で広げていったと考えられます。
 さて、人麻呂に関係するところを見てみますと、続日本紀の和銅二年(七〇九)の条に河内の鋳銭司の記事があり、この記事から推測して和銅二年以前に鋳銭司が河内に設置されています。天武天皇の時代、飛鳥地区にあった鋳銭司は、その原材料調達先としては銅鉱石が大和地方では桜井市多武峰や御所市朝妻に見られるくらいで大和盆地では有望な銅鉱山が乏しいこと、また、藤原京に近接して存在するため民生用の薪炭需要により銅鋳造のための薪炭供給が不安定になることなどから、より原材料調達に有利な河内地方へ移設されたと考えられます。この河内地方は、播磨や六甲方面からの銅の荒金調達や生駒山系からの製錬に使用する薪炭の調達が容易であることから原材料や燃料の調達では飛鳥地域に比べて格段に有利な位置にあります。
 ここで、江戸期まで繋がる河内銅鍛冶に関わる丹比神社と柿本・櫟本臣一族が祀る櫟本神社との関係に注目しますと、慶雲四年(七〇七)に多治比真人水守が河内守に任官しています。現代においても丹比神社と櫟本神社とが緊密な関係にあり、また、和銅二年以前の鋳銭司移転に伴う銅鍛冶を生業とする柿本・櫟本臣たちの河内進出を想像しますと、柿本臣一族の河内進出は慶雲から和銅年間にかけてのことだったと思われます。そして、ちょうどこのころに人麻呂関係では有名な依羅娘子の歌が詠われています。この河内国丹比郡に注目しますと、人麻呂歌集の歌の中に丹比郡依羅郷に関係する次の歌を見ることが出来ます。
 
集歌一七一〇
原文 吾妹兒之 赤裳泥塗而 殖之田乎 苅将蔵 倉無之濱
訓読 吾妹児(わぎもこ)の赤裳ひづちに殖ゑし田を刈りて蔵(おさ)めむ倉無し浜
私訳 私の愛しい娘が赤い裳裾を泥で汚して種を播いた田で穂を刈って納めましょう。もう難波大蔵が焼け失せてしまった、その倉無の浜で。
 
集歌一四〇
原文 勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
訓読 な思ひと君は言へども逢はむ時何時と知りにか吾が恋ひずあらむ
私訳 そんなに思い込むなと貴方は云いますが、貴方と逢う時は「今度、逢うときはいつでしょう」などと数えながら私は貴方に恋をしているのではありません。いつも、貴方に逢いたいのです。もう、貴方は旅立つのですか。
 
 ここで鉱山開発に関わる長門国阿武郡に戻ります。この阿武郡は古代の道では瀬戸内海や大宰府方面から山陰・北陸へ向かう時、石見国美濃郡高津(高角)への入り口に当たります。あの「石見の国から妻に別れて上り来し時の歌」の舞台である石見国「高角(高津)」は、現在の島根県益田市近辺です。今は益田市高津と記しますが、高津川に架かる高角橋などで旧来の名称である高角が確認できます。さらに、高角の西隣に長門国阿武郡宇田(打歌)が人麻呂の歌に詠われるように存在します。
 鉱山・鉱業地理では、高津の里の山である高山(こうやま)(神山)には磁鉄鉱石の露床があります。その高津川の上流となる津和野には銅や砒素の鉱山があり、また、萩の山中を抜けると奈良の大仏建立の銅をほぼ一手に引き受けたとされる美祢郡の長登鉱山地帯に出ます。古代においてこの阿武の山地一帯は鉱物資源で有望な地域です。正史に名を残す柿本朝臣佐留が世間の人々が呼び習わす人麻呂の本名であったのならば、石見国の海岸で人麻呂が死亡したのは和銅元年の年となります。古代銭貨の研究からみた鉱山史では、この和銅年間は長登鉱山や蔵目喜鉱山などを含めて、長門国阿武郡等で朝廷による本格的銅鉱山開発が行われていた時代に相当します。
 前述しましたように柿本臣は鉱山開発や鋳造事業に関わる氏族です。一方、草壁皇子や高市皇子の挽歌を詠い、また、宮中や御幸において寿歌を臣下を代表して奉呈する姿、さらには「石見の国から妻に別れて上り来し時の歌」で使われた高級官僚を意味する「大夫」の言葉を人麻呂自身に使う姿から推定しますと、人麻呂は五位以上の高官であった可能性は非常に高いと思います。
 人麻呂の名が世間の人々が呼び習わす柿本朝臣佐留の綽名であるなら、人麻呂の身分は慶雲から和銅年間では従四位下に相当します。その身分では高官であり、鉱山開発や金属の鋳造事業に関わる氏族である柿本人麻呂が、神社縁起や彼自身の歌から推定して朝廷が重点的に大開発を行っている銅鉱山の開発拠点である長門国阿武郡に来ていたことになります。
 古代の鉱山では輸送事情と鉱石の重量から有用金属をわずかにしか含まない粗鉱を、そのまま、遠隔地へは運搬はしません。現地で荒製錬をして容積と重量を減らす必要があります。つまり、製錬技術者の現地への常駐が必要となります。さらに実務として、鉱山開発、薪炭製造、鉱山元での荒製錬作業、それに従事する人々の食料の調達、製品である荒金の輸送などなど、多岐に渡る管理・運営業務が発生します。このような背景の下、律令時代では、その制度上、中央から役人が鉱山の開発・運営・管理を行うために責任と権限を持って赴任することが要求されます。
 さらに重要なことは、金属は当時の戦略物資であり、財政です。つまり、朝廷の独占事業です。付け加えると信用の問題があります。現在の標準的な銅鉱石が付随する銀の含有量は銅鉱石一トン当たり三~五百グラムぐらいで、主に明治期から開発された銅鉱山である別子銅山の実績では銅地金当たり一%程度の含有です。これは、奈良の大仏に換算すると総量約六トンの銀となります。文献では、時代を遡るにしたがって銅地金に含まれる銀の含有率は増えていきます。記録として、明治期の愛媛県の別子銅山が一%の含有で、江戸期の雲州杵築の鷺銅鉱山の記録では銅地金当たり一・八%ほどの銀の含有があったとされています。人麻呂時代、生産技術の制約のため現代からすると超優良な鉱山だけを開発したでしょうから、銅や銀を豊富に含む鉱石を優先的に使用したと思われます。したがって、銀の含有は、もう少し高い数字と考えられます。また、当時の鉱山では、銅鉱石と鉛鉱石とが近隣から採取可能な場所(例として蔵目喜での桜郷鉱山と川井山鉱山の組み合わせ)から優先して開発したようです。そして、生産工程から銅鉱石と同時に鉛鉱石からも銀が産出されます。推定で、東大寺大仏の鋳造では純銅換算で七百トンの銅を用意したと思われ、また、他にも銅銭の流通、鉛の製錬工程などを勘案しますと、少なくとも総計二十トン(荒銅千トン、銀含有量二%を仮定)、大唐の貨幣価値に換算して銀貨約五十四万両近くの銀が朝廷に収められています。その後の鉱山の運営状況を推測して、年間二トン前後、銀貨換算で約五万両相当の銀が、毎年、朝廷に納められたはずです。その主力鉱山が長門国の長登鉱山や蔵目喜鉱山なのです。
 当時は、鉱山元で荒製錬を行いますから、鉱山元でも銀の回収は可能です。信用できない人間であれば、もともと銅鉱山ですから銅の地金を中央に送り、副産物の銀を手元に残すことも可能です。それで、謹厳な従四位上大神朝臣高市麻呂を大宝二年(七〇二)一月に鉱山開発の初代長官となるような長門守に任命したのではないでしょうか。実際には、高市麻呂は病気により長門国に赴任出来ず、代わりに彼の交代が任命されたようです。律令制では長門国は大宰府や陸奥国と並んで特別な国で国守は四位格が相当官です。人麻呂の名が柿本朝臣佐留の綽名であるなら、この時、柿本朝臣佐留の官位は従四位下です。この場合、日並皇子尊の挽歌を詠んだ人麻呂は交代の役人として、朝廷での信頼性とその官位ともに適任者となります。これらの状況証拠から、人麻呂は長門国守として長門国阿武郡の鉱山開発及び銅製錬の責任者だったと考えても良いのではないでしょうか。
 さらに、戸田綾部氏の伝承から、人麻呂は以前に大和から朝鮮語の通訳(語家綾部家)を同伴して石見国に来ています。このことは、人麻呂は大和国から渡来系の鉱山や金属製錬の専門家を伴っていたとの推定が可能でしょう。人麻呂の現地妻は石見の国の「角里」に住んでいます。その石見の国の「角里」は石見国美濃郡高角(高津)、現在の島根県益田市です。本来は、鉱物資源の分布の観点から見ると長門国阿武郡の奈古や須佐の地の方が便利ですが、石見国美濃郡小野郷戸田には一族の小野氏が住んでいたので、その伝を頼って拠点を角里にしたのかもしれません。また、小野氏の祖は鑿着大使主で鉱山技術者の一族ではないかと推定されていますから、職人達の調達の関係があったのかもしれません。つまり、病気の高市麻呂のピンチヒッターとしての登場としても、人麻呂にとって長門国阿武郡や石見国美濃郡は勝手知る場所でもあります。
 歴史や万葉集の歌からは、人麻呂は壬申の乱のすぐ後に長門国阿武郡一帯で銅鉱山開発に従事していたと思われます。日本書紀 天武十一年四月の条の「筑紫大宰丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり」の記事に注目すると、鐘は新羅や百済の貢とは記されていません。つまり、国産の鐘です。古代銭貨の金属分析研究によって古和同銭貨の分析から文武天皇以前での銅地金の国産化は確認されており、おおむね長門国阿武郡の産出が中心です。ここらから、長門国の阿武郡や大津郡から大宰府への銅地金(荒金)の運搬ルートが確立していたと思われます。当然、地理的関知から運搬ルートは海上渡航の航路でしょう。当時の筑紫大宰は丹比真人嶋です。人麻呂が長門国阿武郡の銅鉱山開発と大宰府の銅製錬鋳造事業に係わっていたとすると、頻繁に行き来があったと想像されます。これらの関係から人麻呂は丹比真人嶋の庇護を受けていたと云う伝承が生まれたと考えられます。
 こうしてみると、ひとつの謎が解けます。その謎とは「石見の国から妻に別れて上り来し時の歌」以外に、人麻呂に石見の国や上京時に通過するはずの国々の歌が無いことです。大和から石見までの旅程では、途中の長門国までは古くから古代最大の幹線経路である瀬戸内海ルートを使用します。その旅程で長門国から先が長門国阿武郡から石見国美濃郡小野郷の高津までとなりますと高津は阿武郡の隣ですし、海の向こうは筑紫大宰です。つまり、高津の「角里」以外に旅の和歌を歌う場所が無いことになります。現代で例えると、東京のビジネスマンが和歌山への出張のとき、東京・大阪間の新幹線の状況を詳細に報告しないのと同じです。これが、わざと名古屋・熊野経由にしたら、当然、違うでしょう。やはり、延喜式にのる官吏の旅行ルートと同じように、人麻呂もまた上京ルートは因幡や出雲経由ではありません。
 このように銅鉱山開発の視点から長門国阿武郡に注目すると、その開発区域の近辺にある大きな国庁(または郡衙)は現在の益田市または長門市です。万葉集で人麻呂が歌う「従石見國別妻上来時謌二首并短謌」の中で、「或本歌」との標題で異伝とされる集歌一三八と集歌一三九との歌は、本歌である集歌一三一と集歌一三二との歌からすると、最初に作られた原歌と思われます。そして、この推敲前の原歌となる集歌一三八と集歌一三九との歌では明確に石見国の美濃郡高津(現在の島根県益田市高津)近辺から長門国の阿武郡須佐(現在の山口県阿武郡須佐町)・阿武郡打歌(現在の山口県阿武郡須佐町宇田町)を経て阿武郡椿木(現在の山口県萩市)への道中を詠っています。
 
参考歌
柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國より妻に別れ上り来し時の歌二首并せて短歌
集歌一三一 
原文 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 (一云 礒無登) 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 (一云 礒者) 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 (一云 波之伎余思 妹之手本乎) 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山
訓読 石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと (一は云はく、礒なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和多津(にぎたつ)の 荒礒の上に か青むす 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を (一は云はく、愛しきよし 妹し手本を) 露霜の 置きにし来れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠に 里は放りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草し 思ひ萎へに 偲ふらむ 妹し門見む 靡けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。夏草が萎へるように私のことを思うと心が萎へて、私のことを偲んでいるでしょう、その恋人の家の辺りを見よう。恋人へと気持ちが靡くように、靡け、この山の木々の葉よ。
 
反謌二首
集歌一三二 
原文 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見のや高角山の木の際より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高津の山の木々の葉の間から、私が振る袖を恋人は見ただろうか。
 
集歌一三三 
原文 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)の葉はみ山も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹思ふ別れ来ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。別れて来たから。
 
或本謌一首并短謌
標訓 或る本の歌一首并せて短歌
集歌一三八 
原文 石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
訓読 石見し海 津の浦を無み 浦無しと 人こそ見らめ 潟無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にぎたつ)の 荒礒し上に か青むす 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾が寝し 敷栲し 妹し手本を 露霜の 置きにし来れば この道し 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび 顧り見すれど いや遠に 里放(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 愛しきやし 吾が妻の子が 夏草の 思ひ萎えに 嘆くらむ 角(つの)し里見む 靡けこの山
 
反謌一首
集歌一三九
原文 石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香
訓読 石見の海打歌の山の木の際より吾が振る袖を妹見つらむか
 

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