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職業人としての柿本人麻呂

第二章 職業人としての柿本人麻呂
若き柿本朝臣人麻呂の行動域

 ここまでの説明からすると、柿本臣は金属の製錬や加工を行う氏族であったと考えても良いようです。古代が氏族社会であり人々はその所属する氏族に縛られるとすると、その柿本臣の姓を持つ柿本朝臣人麻呂もまた氏族社会に縛られた一員です。ここでは、その視線から職業人としての柿本朝臣人麻呂を考察していきます。
 ここまでの考察で、人麻呂はその柿本臣の姓から金属製錬・鋳造に関わる氏族の一員です。一方、壮年期以降の柿本朝臣としての人麻呂は、草壁皇子や高市皇子の挽歌や持統天皇の吉野や紀伊への御幸に随伴し臣下を代表して寿歌を捧呈する官人・官僚の姿を見せています。その壮年期以降の人麻呂の姿が才能と技量で官人として成功した後の姿とすると、人麻呂の青年期は己の所属する氏族に従い、その氏族固有の職業に従事している人麻呂の姿と見ることが出来るのではないでしょうか。つまり、大伴旅人が軍人として官界にデビューしたように大伴氏に武闘派氏族の側面を見るのと同じ感覚です。
ここでは、その可能性を下に万葉集に載る人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂自身が詠ったものとし、その青年期の活動は金属製錬・鋳造に関わる氏族の一員として行ったと仮定します。その仮定の下、人麻呂歌集に見られる旅の歌は人麻呂自身が旅をしたときに詠われたものとし、その旅をした地域と旅の目的を考察します。
 万葉集の歌を見ていく前に、皆さんに私が意図する先入観を持っていただくために、もう少し製鉄について寄り道をします。
 日本の歴史学者が唱える古代史の常識では、石器時代、青銅器時代、鉄器時代の順に文明は進化したことになっています。ところが、生産工学や冶金工学の分野からすると、この順番は非常に悩ましい話です。製鉄は鞴が発明され高温炉が確保されると、叩出し技法で製錬が可能なために金属としての生産技術としてはさほどに高度な技術要求ではありません。近年、従来の専門家が唱えたものとは違い、褐鉄鉱などを原料とする海綿鉄からの製鉄法では千度程度の比較的低温でも製鉄が可能なことが確認されています。これは食器類となる須恵器を焼くときに求められる温度よりも低い温度です。
 ところが、青銅器の場合、それを金属製品として使用するのならば青銅器が青銅と云う合金による製品であるがために純銅・純錫・純鉛などを精錬する生産技術とそれを使って生産された純度の高い銅や錫の母材が合金と云う青銅を製造するときに要求されます。ご存知のように、殷・周時代の古代中国では既に使用目的別に青銅の製造における純銅と純錫との配合が規定されています。つまり、逆説的には生産工学において青銅器時代の中国では純銅・純錫・純鉛などを精錬する生産技法が確立していたことになります。するとここで、古代において鉱石から如何に純度の高い銅・錫・鉛などの金属を得ていたのかが問題になります。この各種の純度の高い銅・錫・鉛などの金属が得られなければ、合金製品としてのまともな青銅は作れません。このことが生産工学からすると悩ましいのです。そして、いかにして古代人は高純度の金属母材の調達をし、青銅器を製造したのかと云う問題は、日本の歴史学者を特別とすると、生産技術の分野では未解決事項です。参考に錫鉱石(酸化錫)の製錬には褐鉄鉱からの製鉄より高温の千百度前後の恒温熱源が必要です。
 このためでしょうか、製品や技術輸入国であった古代日本では考古学上の青銅器時代と鉄器時代の区分を明確にすることは出来ないようです。ただ、斜に構えて金属史を考えるとき、鉄器は異種金属との合金ではありませんので低温加熱程度での作業により再加工が容易です。一方、青銅器は比重の似通った銅と錫の合金であることから一度製品になったものの再利用には、高温炉で鋳直す以外は技術的に困難です。生産コストからも一般に青銅製の銅銭がありますが、まず、鉄銭が経済的に普及しないように安価な鉄器は庶民のものです。一方、本来の色である金銅色に輝く青銅器は国家・王族のものです。およそ、鉄器と青銅器との生産技術の困難性や腐食性を考慮した時に、生産されたものが残存する確率は雲泥の差になると想像されます。このためでしょうか、現在、金属史ではその発祥の地とされるトルコ高原での遺跡発掘状況などからも、隕石鉄加工を別とすると世界的には青銅器時代と鉄器時代とで、どちらの時代が先に誕生したかの結論は出ていないようです。
さて、日本の金属古代史に目を向けると、現在の発掘考古学の成果において近江・飛鳥浄御原宮時代に大規模な製鉄コンビナートの存在が確認されているのは、丹後半島の竹野(たかの)川流域と近江の瀬田丘陵ぐらいのようです。その遺跡の発掘時の製鉄残滓の分析から竹野製鉄コンビナートは朝鮮半島からの輸入砂鉄を原料に使用し、瀬田丘陵製鉄コンビナートは近江高島方面の鉄鉱石を使用していたと推定されています。もし、鉄鉱石からの製鉄が可能ならば、大陸渡来の生産技術を以ってすれば銅の製錬も十分、可能です。
 ここで、瀬田丘陵製鉄コンビナートより古い丹後半島の竹野川流域の竹野製鉄コンビナートに注目しますと、この竹野製鉄コンビナートは製鉄原料として朝鮮半島からの輸入砂鉄を使用していました。この原料輸入に焦点を当てますと、その所在地が重要な要素になります。所在地に注目して、その周辺に残る伝承や神社の縁起などを探ると、この竹野製鉄コンビナートの近傍には竹野郡網野の水江にある網野神社付近が浦島太郎伝説を持つ日下部(くさかべ)氏の本拠です。そして、この日下部氏は丹波国の丹後半島、長門国の穴門、河内国の住吉などを拠点とした古代の海運を生業とするような氏族です。さらに竹野郡網野に接して間人(たいざ)と云う地域があり、この間人地区は聖徳太子の母親の穴穂部(あなほべの)間人(はしひと)皇后(こうごう)ゆかりの地です。その地名由来では聖徳太子一家が戦乱を避け一時滞在したこともあるとの伝えの残る、大和中央権力と濃密な連絡を想像させるような地域です。歴史では、この丹後半島の竹野郡は竹野氏、凡海氏、間人氏や日下部氏など古代史を周囲から飾る氏族の本拠です。そこにこの古代でも有数の竹野製鉄コンビナートが存在していました。
 この製鉄に関する説明を踏まえて、『万葉集』の人麻呂歌集の歌を見ていきたいと思います。
 
木津川中流域 久世付近
泉川の辺にして間人宿禰の作れる謌二首より抜粋
集歌一六八五 
原文 河瀬 激乎見者 玉鴨 散乱而在 川常鴨
訓読 河の瀬の激つを見れば玉をかも散り乱りたる川の常かも
私訳 川の瀬の流れの激しさを見ると白玉を散り乱したようだ。この川はいつもこうなのだろうか。
 
山背国讃良郡 久世付近
名木河にて作れる謌二首より抜粋
集歌一六八八 
原文 炙干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 羈印
訓読 炙り干す人もあれやも濡衣を家には遣らな旅の印そ
私訳 濡れた衣を火に炙り干す人は私のほかにいるでしょうか。この濡れた衣を家に送ってやりましょうか。この濡れた衣は辛い旅の証です。
 
近江国高嶋郡の阿渡川流域
集歌一六九〇
原文 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島の阿渡川波は騒くともわれは家思ふ宿りの悲しみ
私訳 高島の阿渡川の川浪は騒がしいが、私は故郷の家を思い出します。人と離れる旅がわびしいので。
 
伊賀国上野郡の木津川最上流
集歌二一七八
原文 妻隠 矢野神山 露霜尓 〃寶比始 散巻惜
訓読 妻隠る矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しし
私訳 妻が籠ると云う矢野の神山が露霜によって色付きだした。その美しい黄葉が散るのが惜しいことです。
 
 万葉集の歌から推測すると、集歌一六八五の歌を詠った間人宿禰や人麻呂は、この歌が詠われたときに連れ立って行動していたと思われます。万葉集では、この間人宿禰の名前は不明ですが、姓(かばね)としての間人宿禰については続日本紀 天平十七年(七四五)四月の記事に載る甲賀大仏建立時の工人の中に同族と思われる外従五位下丹比間人宿禰和珥麻呂の名前があります。このときの人選から推定して、丹比間人宿禰和珥麻呂は大仏の鋳造を担当していたようです。本来の八色姓からは間人宿禰ですから、間人宿禰は丹後国竹野郡間人(現京都府京丹後市)に関係すると思われます。先に説明したように、この竹野郡は瀬田丘陵製鉄コンビナートが稼動する前は、日本最大の製鉄コンビナートが存在した場所です。憶測になりますが、丹後半島の竹野郡に関係する間人の姓を持ち、丹比間人宿禰が甲賀大仏の鋳造に関わるなら、この集歌一六八五の歌を詠った間人宿禰は、なんらかの形で金属製錬に関わる人物と考えられると思います。なお、和珥麻呂が複姓の丹比間人宿禰と称しているのは、血に丹比連のものが入っているためと考えられます。
 一般に、人麻呂歌集の歌に対する表記論では、これらの歌は略体歌や非略体歌に分類されます。そこから詠われたのが一番遅い時期としても持統天皇紀の早期以前の歌と推定されます。私は人麻呂歌集の歌の編年推定では略体歌や非略体歌は両立していたとする立場ですが、それでも歌が詠われた場所、史実、順列などを勘案して、これらの歌が詠われたのは、天智天皇の近江朝時代の歌と考えています。
 さらに人麻呂の職業を推定するのに重要なこととして、ここで紹介した歌が詠われた場所は近江国高島、山背国久世、伊賀国名張の山中です。これが注目すべき点です。鉱山や鉱石採取に興味のある御方には、滋賀県の安曇川上流の朽木、京都府から滋賀県の宇治川水系の田上・信楽一帯、京都府・奈良県・滋賀県の木津川水系の山中に、金属の製錬・鋳造に関係する人物が何らかの目的でこれらの場所に来ていたと聞くと、その目的がなんであったのかが直ぐに判ります。現代の私たちですと趣味における銅鉱石やペグマタイト(巨晶)に含まれる多様な鉱石の標本採取ですが、人麻呂の時代は鉱業としての鉱山・鉱石探査と思われます。
 こうした時、人麻呂が万葉集の中で御幸のように目的がはっきりとした公務以外で地方を訪れ、歌を残した場所は現代の鉱石マニアが標本採取に必ず訪れたいと思わせる場所です。
 
近江国高島の山中 滋賀県の安曇川上流の朽木
山背国久世の山中 京都府から滋賀県の宇治川水系の田上・信楽一帯
京田辺の甘南備山一帯
伊賀国名張の山中 京都府・奈良県・滋賀県の木津川水系の山中
播磨国加古の山中 兵庫県加古川水系の山中:多可または生野
長門国阿武の海岸 山口県長門市の海岸線:長門市日置や萩市山田青長谷
山口県萩市奈古や須佐から島根県益田市高山(神山)
 
 集歌一六八八の歌は、地理では京都府城陽市から宇治市近辺を詠うものです。宇治川の南岸を仕事や住居の拠点とした場合、宇治川上流には磁鉄鉱石で有名な犬打川があり、近隣の京田辺市には水晶やペグマタイトで有名な甘南備山があります。このように、間人宿禰と人麻呂とは何らかの鉱物鉱床の探査に係わる仕事をしていたのではないかと窺わせるのです。
 次に、集歌一六九〇の歌は滋賀県高島の歌です。ここは、続日本紀 天平宝字五年(七六一)の記事で藤原恵美押勝が鉄穴(鉄鉱石鉱山)を賜ったと示される土地です。また、詳細な地名は不明ですが、『続日本紀』によると大宝三年(七〇三)九月に志貴皇子に近江国の鉄穴が下賜されていて、およそ、それは琵琶湖北岸と推定されています。このように、正史に載るほどの鉄鉱石の鉱山に関わる地域に、人麻呂は何らかの目的で訪れています。
 さらに、集歌二一七八の歌から推測されるように、名張から分け入り木津川の最上流の山辺郡山添の山中で秋の時期におよそ一~二月の期間に渡って、何らかの調査をしています。上野市の資料によると、当該地域の地勢は「地質学的には、上野盆地北縁から南東縁にかけての地域はイルメナイトを主とする山砂鉱床(砂鉄鉱床)などがある」とあります。さらに、この木津川の別の支流の上流の滋賀県大津市田上関津町には、トパーズ、黄鉄鉱や磁鉄鉱で有名な田上山があります。もちろん、万葉集に載るこれらの歌からは人麻呂がこの地を訪れた理由を直接に知ることは出来ません。
 ここで、金属加工技術から近江・飛鳥時代を考えるときに、滋賀県大津から草津にかけての丘陵地帯に飛鳥から奈良時代に稼働した優良な鉄鉱石を原料とする製鉄工場遺跡が数多く出土しています。その規模や重要性から、発掘者や研究者はこの遺跡群を瀬田丘陵製鉄コンビナートと名付けています。この瀬田丘陵製鉄コンビナートについて、正史では日本書紀の天智九年(六七〇)の記事に「是歳、造水碓而冶鐵」とあり、この頃から水力を利用して唐臼で鉄鉱石を砕き、大規模製鉄を開始したと思われます。製鉄工程に関わる記事を正史に載せたのは官営の大規模な瀬田丘陵製鉄コンビナートがこの頃に正式操業に入ったためと考えられます。足痛とも称される足踏み式唐臼から水力式唐臼への転換は、製鉄の規模の大きさを示すものでしょう。そして発掘の成果報告によると、この製鉄コンビナートが使う鉄鉱石の供給は滋賀県の高島市の比良山地及び大津市田上山付近であろうと推定しています。つまり、そこは人麻呂の歌にゆかりのある場所です。そして、さらに重要なことは、この製鉄コンビナートの製鉄法は中世から近世日本の主力となる砂鉄からのたたら製鉄法とは違い、鉄鉱石からの製鉄方法です。つまり、八幡神(または市杵嶋比賣命)を祀る技術者系の製鉄法で運営されていた製鉄コンビナートなのです。
 歴史では、天智天皇は京を志賀(滋賀)の大津に移し、その大津京に大和の住人を移住させています。そして、先に見たように、天智九年の水力唐臼の記事が示すように、そのころ瀬田丘陵製鉄コンビナートが開発されています。この製鉄コンビナートは当時としては大規模なもので、少し遅い日本書紀の記事になりますが、天武十四年(六八五)に大和朝廷は周防及び太宰に、同時にそれぞれ一万斤(約六トン)の鉄片を送っています。畿内での在庫の必要性を考えますと、少なくとも大和朝廷は数万斤(二~三十トン)の鉄片在庫を保有していたと思われます。その生産基地が、この瀬田丘陵製鉄コンビナートです。
 ここで、柿本人麻呂に戻ります。
 個人的な人麻呂歌集の歌の編年推定から、人麻呂は壬申の乱の前の近江朝時代に大津京に住んでいます。以下に紹介する人麻呂と隠れ妻との万葉集の相聞歌 集歌二四三六や集歌二四四〇の歌から推定して、近江朝時代には既に琵琶湖には琵琶湖北岸の高島にある香取の津から琵琶湖南岸に位置する志賀の辛崎への大船の運航があったと思われます。ここから、瀬田丘陵製鉄コンビナートの存在とその原料となる鉄鉱石を勘案しますと、高島郡で選鉱された鉄鉱石を瀬田へと送る琵琶湖の水上運搬があったと推定できます。瀬田の対岸となる志賀の辛崎は、琵琶湖を行く大船から川を遡る内航船への積み替え港の機能を持っていたと思われます。その積み出し港の高島に大和の住人である人麻呂が滞在していたこと自体が、市杵嶋比賣命を祀る柿本臣の一員である若き人麻呂の職務を物語っているのではないでしょうか。つまり、これらの状況証拠から類推して、若き人麻呂の職務は優良な鉱石・鉱脈を探査する鉱山技師です。
 
集歌二四三六
原文 大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
訓読 大船の香取の海の慍(ふつ)下(くだ)しいかなる人か物思はずあらむ
私訳 大船が高島の香取の入江に碇を下ろすように、逢えないことへの怒りを下す。どのような人が、逢えない恋人に物思いに深けないことがあるでしょう。
 
集歌二四四〇
原文 近江海 奥滂船 重下 蔵公之 事待吾序
訓読 近江の海沖漕ぐ船しいかり下ろし隠りて公し事待つ吾ぞ
私訳 近江の海の沖を漕ぎ行くような大船が碇を下ろして浦に籠るように、家に籠って仕事で離れている貴方の訪れを待つ私です。
 

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