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職業人としての柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
柿本朝臣人麻呂の妻たち
石見国の妻

 現在、「石見の妻」は島根県益田市戸田の戸田柿本神社の神主一族の祖、訳語綾部家の娘女が、その人だと考えられています。なお、明治末から昭和時代には、依羅娘子と同一人物だと推定され、石見国那賀郡恵良郷(島根県江津市二宮町神主付近)の里の娘ではないか、などの案が提案されていました。なお、「石見の妻」と「依羅娘子」とは別々な女性と考えるのが相当と考え、ここでは対象としません。
 さらに、従来から問題にされる「石見の妻」と人麻呂の「在石見國時臨死時自傷作歌」以下五首との関係について、万葉集時代に歌物語の成立の可能性と万葉集編纂に対する立場から「石見の妻」と「自傷作歌」などとは関係がないものと考えています。その為、石見の妻が住む場所の地名や地形において「石川」には拘束されないと考えています。
 ここで紹介する「石見の妻」は万葉集の「従石見國別妻上来時謌」の歌群から、石見国の津浦または角浦と呼ばれる場所に住んでいた娘です。その家は海岸に近接する集落にあったと推定されます。歌の感情からは、依羅娘子に絡めて海岸から遠く離れた山里に住居を求めるのは無理があると思います。確認しますが、「石見の妻」は人麻呂の「自傷作歌」や依羅娘子の「柿本朝臣人麿死時妻依羅娘子作謌二首」には、直接、関わらないため、それらには拘束されません。従いまして、良く話題となる「石川」や「鴨山」などの地名に対する「なぞ解き」はいたしません。
 この「石見の妻」の紹介に先だって、最初に万葉集に載るその歌群を紹介します。歌群は長歌三首、それぞれに付属する短歌、計五首で構成されています。

柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國より妻に別れ上り来し時の歌二首并せて短歌集歌一三一
原文 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 (一云 礒無登) 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 (一云 礒者) 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 (一云 波之伎余思 妹之手本乎) 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志奴布良武 妹之門将見 靡此山
訓読 石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと (一は云はく、礒なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和多津(にぎたつ)の 荒礒の上に か青むす 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を (一は云はく、愛しきよし 妹し手本を) 露霜の 置きにし来れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとし 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草し 思ひ萎へに 偲ふらむ 妹し門見む 靡けしこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに愛しい妻の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。夏草が萎へるように私のことを思うと心が萎へて、私のことを偲んでいるでしょう、その恋人の家の辺りを見よう。恋人へと気持ちが靡くように、靡け、この山の木々の葉よ。

反謌二首
集歌一三二
原文 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見のや高角山(たかつのやま)の木の際より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高い津野の山の木々の葉の間から、私が振る袖を愛しい妻は見ただろうか。

集歌一三三
原文 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)の葉はみ山も清やに乱(さや)げども吾は妹思ふ別れ来ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は愛しい妻を思っています。別れて来たから。

或本反歌曰
標訓 或る本の反歌に曰はく
集歌一三四
原文 石見尓有 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨
訓読 石見なる高角山の木し間ゆもわが袖振るを妹見けむかも
私訳 石見国にある高角山の木々の間から、私が別れの袖を振るのを愛しい妻は見ただろうか。

集歌一三五
原文 角鄣経 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒磯尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃(一云、室上山) 山乃 白雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沽奴
訓読 つのさはふ 石見し海の 言さへく 辛の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し兒を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝(きも)向(むか)ふ 心を痛み 念ひつつ 顧り見すれど 大舟し 渡(わたり)の山し 黄葉(もみちは)の 散りし乱(まが)ひに 妹し袖 清やにも見えず 妻ごもる 屋上(やがみ)の (一は云はく、室上山(むろかみやま)) 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫(ますらを)と 念へる吾も 敷栲の 衣し袖は 通りに沽れぬ
私訳 岩角が鋭い石見の海の言葉の騒がしい韓國へ伸びる岬にある海の中の石には海底深くに海松が生える。荒磯には美しい藻は生える。その美しい藻のように私に靡いて寝た幼子を、海底深くの海松のように深く愛したけれど、その幼子と寝た夜はそんなにはない。地を延びる蔦のように秋になり根と葉が別れるように別れてくると、心が締め付けられるように心を痛み、家族を深く心に刻みながら振り返って見るが、大船が渡ってくる湊にある山の黄葉の葉の散り乱れるために、愛しい妻が私に別れに振る袖もはっきりと見えず、愛しい妻が籠る屋上の山の雲の間から見える沈み往く月が残念なことに隠れていくと、空を行く太陽の日の光が射してくる。今は大夫に等しい私も愛しい妻と寝たときの衣の袖は形見のために持って来た。

反歌二首
集歌一三六
原文 青駒之 足掻乎速 雲居曽 妹之富乎 過而来計類
訓読 青(あを)駒(こま)の足掻(あが)きを速み雲居にぞ妹しあたりを過ぎて来にける
私訳 青馬の歩みが速い。そのような早く流れる空にある、魂を伝えると云う雲が、愛しい妻のいる付近を通り過ぎて来ました。

集歌一三七
原文 秋山尓 落黄葉 須奭者 勿散乱曽 妹之雷将見
試訓 秋山に落(ふ)る黄葉(もみちは)の須臾(しましく)はな散り乱(まが)ひそ妹(いも)の雷(なり)見む
試訳 秋山に散る黄葉の葉よ、しばらく間、散り乱れないでくれ、愛しい妻の姿とその住むあたりの稲妻を眺めたい。

或本謌一首并短謌
標訓 或る本の歌一首并せて短歌
集歌一三八
原文 石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
訓読 石見し海 津の浦を無み 浦無しと 人こそ見らめ 潟無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にぎたつ)の 荒礒し上に か青むす 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾が寝し 敷栲し 妹し手本を 露霜の 置きにし来れば この道し 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび 顧り見すれど いや遠に 里放(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 愛しきやし 吾が妻の兒が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角(つの)し里見む 靡けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。愛しい私の妻の幼子が夏草のように別れを思うと心が萎へて嘆いてしまうでしょう。その津の里を見たい。生茂る木々の葉よ靡け開け、この山よ。

反謌一首
集歌一三九
原文 石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香
訓読 石見の海打歌の山の木の際より吾が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見の海の、その海沿いの打歌(宇田)の山の木の間際から私が振る袖を愛しい妻は見ただろうか。

 この歌群は中秋の季節を詠う集歌一三一の長歌と集歌一三八の長歌、晩秋から初冬の季節を詠う集歌一三五の長歌との二つの歌群に分けられます。それを人麻呂と石見の妻との別離と云う同一のテーマとして、集歌一三一の長歌の前に標題として「従石見國別妻上来時謌」が置かれています。
 推定する歌の舞台、島根県益田市は新暦九月半ばには二十四節気の白露と云う状況になります。しかしながらこの時期は、まだまだ、晩秋の「黄葉乃散之乱尓」と云う状況にはなりません。およそ、集歌一三一の歌の「露霜」の季節は、直ちには集歌一三五の歌の「黄葉乃散之乱」の季節にはなりません。この前提を見間違えると、一部の解説で見られるようなこれらの歌群が全て同じ季節を詠っていると云う不思議な歌の鑑賞になります。
 一方、万葉集には人麻呂歌集の歌として、次のような歌があります。人麻呂歌集の歌を人麻呂本人が詠ったとしますと、人麻呂は地方から中上がりをしています。中上がりは国守またはそれに相当する官人がその任期の中間に上京し業務報告をする制度です。その中上がりの制度からすると人麻呂は地方任官地から上京・帰京と二度、都に上って来たことになります。また、国守の官位は天武天皇の時代では天武五年の詔が示すように「大山上(正六位上)」以下が相当ですので、集歌一七八二の歌を詠った時代の人麻呂は年齢を考慮して「大山中(従六位上から正六位下)」相当の官僚であったと推定します。

与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌一七八二
原文 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。

妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌一七八三
原文 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松返りしひてあれやは三栗(みつくり)の中上り来ぬ麻呂といふ奴
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
別訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

 この「石見の妻」の歌群と「中上がり」の歌群とが示す歌の内容が偶然の一致でなければ、人麻呂は大和飛鳥から石見国へ赴任し、上京・帰京で二度ほど都へと旅立ちをしたことになります。
 では、中秋の集歌一三一の長歌と晩秋の集歌一三五の長歌では、どちらが最初の都への旅立ちだったのでしょうか。個人の感覚で集歌一三五の長歌での「肝向 心乎痛」や「衣袖者 通而沽奴」の句から二度と会えない別れの感情を感じ取り、こちらが永久の別れの歌とし、中秋の集歌一三一の長歌が最初の都への旅立ちの歌と考えます。こうしますと、永久の別れの集歌一三五の長歌で「大夫跡 念有吾毛」と詠いますから、任期完了しての帰京の時、都から「小錦下(従五位下)=殿上人、大夫」への叙位の内示がなされていたと想像します。
 ここで、石見時代の人麻呂の姿は、一時、棚置きにして、石見の妻の住んでいた場所を推理してみたいと思います。
 最初に、集歌一三一の歌で詠うように里の風景は海岸であっても「浦無跡(浦なし)」、「滷無跡(潟なし)」と詠われる場所です。およそ、妻が住む里近辺には大舟が入るような安全な入り江も、大きな水深のある河口も無かったと思われます。ただし、「和多豆乃 荒礒乃(にぎたつの荒磯の)」とも詠いますから、近隣には磯浜があります。これが、里の情景です。
 さらに、集歌一三五の歌では「渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼」と、大舟を待つ湊から旅立ちで別れて来た妻の住む方向の山並みを眺めていると、月は西に傾き、朝日が昇ると詠います。人麻呂の視線を追うと、妻の住む里は大舟の着く湊から北にあります。また、集歌一三一の歌ではその湊への道程を「此道乃 八十隈毎(この道の 八十隈ごとし)」と表現しますから、人麻呂は妻の住む海岸付近の里から大舟の着く湊を目指して長く曲がりくねった山道を石見国から南へとやって来ています。
 ある湾内での局地的な地形ではなく、郡や郷規模での地形を前提に石見の妻の里を推論します。すると、大舟の入る湊の方位と地形の条件、そこへの道程と戸田柿本神社の伝承から、石見の妻は石見国美濃郡小野郷戸田に住んでいて、人麻呂はそこから北浦街道を大舟の着く湊を目指して石見国から長門国へと南下したと想像されます。
 もしゴロ合わせが許されるなら、集歌一三九の歌の「打歌(うつた)の山」は現在の地名「宇田(うた)」(山口県阿武郡阿武町宇田)の山となります。そして、大舟の着く湊は、阿武国造の本拠があったと推定される長門国阿武郡奈吾郷(山口県阿武郡阿武町奈古)か長門国阿武郡椿木郷(山口県萩市)となります。
 次に人麻呂と石見の妻との家族関係を見てみますと、戸田柿本神社の伝承から妻は訳語綾部氏の娘です。ここで、最初の上京の時の歌である集歌一三八の歌、「吾嬬乃兒我」の句に注目すると、「子」でなく「兒」の用字から、人麻呂夫婦には幼子が居た可能性があります。それも、「思志萎而(思ひ萎えて)」と詠うように、父親の旅立ちでの別れに際し、ある程度の物心は付いている幼子です。また、最後の上京の時の歌である集歌一三五の歌では「靡寐之兒乎(靡き寝し兒を)」や「幾毛不有(幾だもあらず)」と詠います。石見の妻は、まず、人麻呂と同居する女です。それも人麻呂の石見の国での滞在期間、五年以上も同居生活をしていたと思われます。従いまして、集歌一三五の歌の「靡き寝し兒」とは夜を共にする女性ではなく、幼子だと思われます。それも別れの時、幾日も添い寝をしていないと詠いますから、およそ、産まれて間もない幼子であったと考えられます。これらの歌の情景から推定して、人麻呂と石見の妻の間には二人の子が生まれていたと考えられます。
 さて、このように石見の妻と人麻呂との家族構成は推測が可能です。ただ、その石見の妻となる女性の人物像については、残念ですが、不明です。人麻呂の歌からは、ただ「愛しい幼子の母親」と表現されるような女性です。伝承からすると、石見の妻は家の子・郎党に相当する倭から石見国へ同行して来た訳語綾部一族の娘です。その身分は低く、場合により、娘の話す言葉は百済・新羅語が得意で、倭言葉は苦手であったかもしれません。訳語綾部氏は柿本人麻呂の石見国への下向に一族を同行していますから、最初から石見国での土着の意向があったと思われます。そうした時、綾部一族にとって、倭の古豪の血筋で国守級の役職と官位を持つ柿本人麻呂の血は、地方の石見国では重要な意味を持ちます。また、柿本一族にとっても、地方に柿本一族の血筋を残すことは重要な事項です。この両者の思惑で、訳語綾部氏の娘は人麻呂の子を産む女として選ばれ、その大役を果たしたのではないかと推測します。想像するこのような背景のため、石見の妻は人物像が見えず、ただ「愛しい幼子の母親」と表現されるのではないかと考えます。
 参考として、石見の妻に関係すると云う歌を紹介します。
 人麻呂の青春時代、妹と呼ぶような女性は少なくとも「泉川の女」と「石見の妻」とが居ます。そのどちらかの女性に関係すると思われる歌が、人麻呂歌集に相聞歌として次の歌二首があります。この歌二首を強いて区分すると、集歌一二四九の歌は女歌で、集歌一二五〇の歌は男歌です。ただ、実際は共に人麻呂の作歌と思われます。推定ですが、愛情交換において、教養水準の差か言語の問題で相手の女性との間で大和歌の交換は成り立たなかったのではないでしょうか。そこが多くの相聞歌を残した「軽の里の妻」との違いと思います。
 さて、集歌一二四九の歌の「浮沼池」の「浮(うき)」には「泥(うき)」の意味合いも込められているとの解説があります。すると、菱を摘む女性は衣を大きくたくしあげ泥沼に素脚をつけています。まず、岸辺から手を伸ばして届く範囲で一つ、二つほどの菱を摘む風情ではありません。このような情景は、下着の無かった時代、身分ある女性が見せる姿ではありません。次に集歌一二五〇の歌で「菅賽採」とあります。原文では「實(shi)」ではなく「賽(sai)」の漢字が使われています。この「賽」の字にはサイコロ(賽子)の意味もありますが、神のお告げのような「報」の意味もあります。また、探している「菅」は現在ではヤブランのことを意味し、そのヤブランの根は催乳の効能を持つ薬草です。古くは、初冬にヤブランの実のついた茎を頼りに掘り取り、乾燥させて作ったとされています。ここに「報」の意味がきいてきます。歌は菅の実を採りに来たのではなく、菅の実を頼りに探して根を採りに来ていると告げているのです。
 この二つの歌を合わせると、新妻は家族のために沼に入り滋養ある菱の実を摘み、夫は山の藪の中で妊娠している妻のために催乳の効能を持つヤブランの根を探している風情となります。この相聞歌は、石見の妻が「愛しい幼子の母親」であると云う推定に相応しいものではないでしょうか。
 ただし、これらの相聞歌が特定の場所を示すものではないので、巨椋池の周辺の沼であっても、情景としては成り立ちます。

集歌一二四九
原文 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
訓読 君しため浮沼池の菱つむとわが染め袖の濡れにけるかも
私訳 貴方のために深い泥沼の池の菱を摘もうとすると、私が染めた袖が濡れてしまいました。

集歌一二五〇
原文 妹為 菅賽採 行吾 山路或 此日暮
訓読 妹のため菅の賽(さい)採り行きし吾山路の或(とも)にこの日暮しつ
私訳 愛しい妻のために菅の実が告げる、その根を掘り採りに来た私は、山路にあってこの秋の日、一日を過ごしてしまった。

 ずいぶん、従来の解釈とは違います。歴史では石州益田地方に柿本益田氏と云う一党が奈良時代から江戸期の毛利家時代まで続いています。時代において、侵入して来た権力者は、その都度、柿本益田氏の血を入れ、石州美濃郡支配の正当性を主張します。その人麻呂と石見の妻との子を始祖とする益田家に伝わる『益田家文書』では、初代 柿本益田氏の祖となる人物は正八位上の官位を持ち、国守に次ぐ立場で実務上の石見国の支配者となる石見国掾を務めたとしています。

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