見出し画像

職業人としての柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
 柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫

 柿本朝臣人麻呂は、古今和歌集の仮名序で「おほきみつのくらゐ」、真名序では「柿本大夫」と呼ばれています。ここから、「おほきみつのくらゐ」の意味する「正三位」はさて置き、古今和歌集が編纂された当時の認識は「柿本大夫」の表現から殿上人たる「従五位下」以上の官位を持つ官僚であったと推測されます。なお、時代が下るにつれ「大夫」は「五位」に限定するように解釈が変化しますが、ここでは奈良時代の「大夫(だいぶ)」の意味として解釈します。
 一方、続日本紀には従四位下の官位で死亡した柿本朝臣佐留の記録があります。この柿本朝臣佐留は日本書紀に現れる柿本朝臣猿(本来の表記は旧字)と同一人物と考えられます。すると、柿本佐留の活動時期や死亡時期からしますと、万葉集の人麻呂と正史に載る佐留とは同時代人で、共に従五位下以上の殿上人を意味する「大夫」です。この「大夫」については、万葉集 巻二に載る集歌一三五の歌で人麻呂自身が「大夫跡 念有吾毛」の言葉を使っており、その歌が巻二に採歌されていること自体から推定して、歌が詠われた時代やその歌を『万葉集』に取り入れた時代を通じて、人々の認識は「人麻呂は大夫の身分の人物」であったと考えられます。つまり、柿本朝臣人麻呂の記録は正史にはありませんが、殿上人たる「従五位下」以上の官位を持つ官僚であったことは確実と考えられます。そうした時、その柿本朝臣と云う氏族を考えますと、小錦下(従五位相当)以上の貴族階級が少なかった藤原京時代、同時期に二人の「大夫」を輩出するとは考えにくいことです。従いまして、ここでは佐留を姓氏録に載る本名とし、人麻呂を世間での通称となる仮名(けみょう)と推定します。
 次に下記の表を見て下さい。これが奈良時代に歴史に現れる柿本朝臣一族の事跡です。柿本臣と云う氏族の規模と相続関係から、官人登用や選叙での特権を約束される「朝臣」の姓は柿本朝臣佐留の直系の家系に限られると想定します。ここで、従五位下への昇階年代に注目しますと、建石が神亀四年(七二八)正月であり、市守が天平二十年(七四八)二月です。そこには、ちょうど二十年の間隔があります。これらの記事の年代から推測して、佐留、建石、市守の三人には祖父・親・子の関係が見出せると仮定することが可能ではないでしょうか。
 つまり、ここで提案する二つの仮説、「柿本朝臣佐留は柿本朝臣人麻呂と同一人物である」、「佐留、建石、市守の三人には祖父・親・子の関係が見出せる」を、今後の議論の出発点としたいと思います。なお、浜名は「外従五位下」の官位などに注目して、彼は建石の弟(または、養子筋)で、市守に対しては叔父にあたると推定します。また、小玉は黒玉として東大寺修二会の過去帳に登場するように東大寺大仏にかかわる銅の鋳物師と思われるため考察からは外します。
 
和銅元年(七〇八)四月            従四位下    柿本朝臣佐留 卒す
神亀四年(七二八)正月            正六位上    柿本朝臣建石 従五位下に昇叙
天平九年(七三七)九月             正六位上    柿本朝臣浜名 外従五位下に昇叙
天平十年(七三八)四月             外従五位下 柿本朝臣浜名 備前守に叙任
天平二十年(七四八)二月         正六位上    柿本朝臣市守 従五位下に昇叙
天平勝宝元年(七四九)閏五月  従五位下    柿本朝臣市守 丹後守に叙任
天平勝宝元年(七四九)十二月  正六位上    柿本小玉 外従五位下に昇叙
天平勝宝二年(七五〇)十二月  外従五位下 柿本小玉 外従五位上に昇叙
天平宝字元年(七五七)六月     従五位下    柿本朝臣市守 安芸守に叙任
天平宝字五年(七六一)十月     従五位下    柿本朝臣市守 主計頭に叙任
天平宝字八年(七六四)正月     従五位下    柿本朝臣市守 従五位上に昇叙
 
 建石は従五位下への昇叙の記録だけで歴史から消え、浜名もまた備前守への就任記事を最後に歴史から消えます。そこで、比較的に記事の多い市守にスポットを当てたいと思います。彼は天平年間中期以降に歴史に登場し、最終的に主計頭の官職と従五位上の官位に就いています。中級氏族である柿本朝臣一族としては、上々の役職と官位を頂いたものと考えます。
 この市守は表に示すように天平二十年(七四八)二月に正六位上から従五位下に昇叙し、その翌年に丹後守に叙任されています。そして、天平宝字五年(七六一)十月には主計頭へと叙任しています。先の仮定で佐留、建石、市守の三人には祖父・親・子の関係が見出せるとしますと、市守は蔭による出仕で、二十一歳の時、従五位下柿本朝臣建石の子として、嫡子では従八位上、庶子では従八位下から官人生活がスタートします。正式の選叙期限四年で常に優秀とされた場合、従五位下になるのは嫡子では九階級の三十六年後、五十七歳の時となり、庶子では十階級の四十年後、六十一歳の時となります。これでは主計頭への叙任が嫡子で七十歳か、庶子では七十四歳となります。まず、職務と年齢を比較すると、これはあり得ません。(注:継嗣令から嫡子を嫡妻の長子と解釈しています)
 なお、佐留と市守との間に親子関係を想定しますと、佐留の死亡時期から推定して天平二十年時点で市守が一番若い場合で四十一歳です。佐留は天武十年(六八一)に小錦下(従五位下相当)に昇叙していますから、市守が子であった場合、市守の初叙位後での佐留の昇叙の可能性を考え、佐留が従四位下の場合は従七位下、正五位上の場合では従八位上からの官人生活の出発となります。この仮定の下では市守が四十一歳の時、従六上または正七位下にしか到達しません。これでは天平二十年(七四八)二月に正六位上から従五位下へと昇叙した史実と合いません。従五位下へと昇叙に合わせるため、天平二十年時点での市守の年齢を八歳から十二歳ほど増すことも可能ですが、その場合、主計頭への就任年齢が六十歳以上の高齢になります。これもまた、難しいと思います。
 では、逆算をしてみましょう。朝廷の実務官僚としては重要なポストである主計頭(現在の財務省主計局局長)への叙任を五十五歳と仮定してみます。すると、天平二十年(七四八)二月の時点では四十二歳となり、官人生活二十一年目となります。つまり、五回の選叙を経て従五位下に昇叙したことになります。ここから正七位上が柿本市守の官人生活の出発点となります。蔭での出仕とすると、三位の祖父の庶孫であれば規定では正七位上が与えられます。もし、嫡孫であれば従六位下での出仕となり、順調な出世では四回の選叙で従五位下へと昇叙ができます。およそ、三十七歳のこととなります。その場合、主計頭への就任は五十歳です。これですと、一番、油の乗りきっている年齢です。
 律令制度の選叙令からの逆算結果から、祖父が三位でなければ柿本朝臣市守が五十歳代で主計頭に就任することは難しいことが判りました。そこでもう少し、周辺の様子を見てみます。柿本市守に前後して主計頭に就任した人物を探してみますと、記録が明らかものでは次のような人物が天平九年から順に就任していることが判ります。
 
阿倍朝臣吾人     従三位阿部朝臣広庭の子または近親者
石川朝臣牛養     従三位石川朝臣石足の子または近親者
秦忌寸朝元        辨正法師の子、辨正は遣唐学僧、長安で死亡。朝元のみ帰国
阿倍朝臣鷹養     従三位阿部朝臣広庭の子または近親者
柿本朝臣市守      柿本朝臣佐留の孫?
多治比真人木人  正二位多治比真人嶋の孫または近親者
石川朝臣己人      従三位石川朝臣石足の孫または近親者
宍人朝臣継麻呂  光仁天皇の側近か?
百済王武鏡         従三位百済王敬福の子
 
 秦忌寸朝元を除きますと、三位以上の人物を出した一族の子や孫筋の人物です。従五位下相当職の主計頭への就任は、およそ、蔭位の制度からの昇叙が背景にあったと推定されます。こうした時、日本の律令制度下では養子縁組に対する制限は緩く、養子であっても蔭位制度の恩恵は受けられました。従いまして、一族で優秀な人物であれば近親者の蔭位の恩恵を受けたと推定しても間違いはないと考えます。
 一方、秦朝元の父親辨正法師は唐の玄宗皇帝と碁を打つ仲であったと伝えられているような優秀な学僧で、留学先の唐で還俗させられ現地の女性に子を産ませています。その子の一人が秦朝元です。朝元は養老二年ごろ遣唐使の帰国に同行する形で帰朝しています。その後、天平二年には語学教授に任命され、その翌年の天平三年に正六位上から外従五位下へと昇叙しています。これは、山上憶良の例からすると、遣唐使随員の功績に準じる形での特進などがあったと考えられます。なお、歴史上では宍人朝臣継麻呂のように、光仁天皇即位の論功行賞の報奨かのように三月間だけ主計頭に就任した人物もいますが、これは検討から除外しました。
 このように律令制度の選叙規定からすると五十歳代までに主計頭に就任することは、親が、その子が出仕する以前に五位以上の官人でなければ特段の事情がない限り困難です。特に市守の場合、主計頭への就任以前に従五位下の官位で丹後守と安芸守に就任していますから、先に見たように親となる柿本建石が市守の出仕以前に正四位でなければ、先に検討した市守の昇叙の条件を満たしません。ところが、続日本紀では天平九年頃から任官の記録は詳しくなりますが、そこには柿本建石の昇叙や叙任の記録はありません。建石は早い時期に死亡したか、従五位下で止まったと思われ、市守の出仕以前に正四位以上であった可能性はないと考えます。
 そこで、市守の祖父筋に当たる柿本朝臣佐留に従三位が与えられる可能性を検討してみます。
 柿本一族は東大寺大仏建立の鋳物師として柿本小玉が外従五位上に報奨・叙勲されるように、銅などの金属の精錬に深くかかわる一族です。一方、長門国大津郡には柿本人麻呂が帰京の途中に海難に遭遇したとの伝承が残り、万葉集には海難死を示唆する歌が残されています。最初に提案しました仮説に戻りますが、柿本佐留=柿本人麻呂としますと、従四位下柿本朝臣佐留は公務での帰京の途中に長門国大津郡沖合で海難死したとの推測が可能となります。
 奈良時代には銅や鉄の鉱山の開発は国家の財政でした。朝廷は銅銭を流通させ、官人には鉄鍬を報酬の一部として支給しています。銭は米や必要な物資と交換され、物資は官途に使用されます。その通貨流通の基盤を支えたのは長門国の銅です。奈良時代を通じ、長門国の銅鉱山は東大寺の大仏の銅を一手に引き受けるような国家最大の鉱山でした。つまり、柿本朝臣佐留が国守として長門国の鉱山経営を行っていたのなら、国家財政の大きな功労者となります。
 さらに、柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂としますと、万葉集の歌から推測して壬申の乱に天武天皇側の一員として参加した功臣です。さらに、草壁皇子や高市皇子の挽歌を奉げたように国家を代表する立場の一員です。その人物が公務の途中での殉職であれば、死後贈位があっても良いと考えます。想像として、従四位下柿本朝臣佐留は和銅元年(七〇八)四月以降に死後贈位として従三位が与えられたと考えます。
 なお、壬申の乱の功で死後贈位を受けた例として、従四位上大神(大三輪)朝臣高市麻呂が従三位を頂いています。壬申の乱の功労者の病老死でも三階級特進の事例が有りますと、従四位下柿本朝臣佐留に対して殉死+壬申の乱の功とを併せた四階級特進の可能性は捨てきれないと思います。「おほきみつの位=正三位」については、持統天皇と柿本朝臣人麻呂の関係を考えた場合、殉死+壬申の乱の功労+朝廷への功労、特に草壁皇子と軽皇子への関与を踏まえると、元明天皇からの特別の思し召しがあったかもしれません。ただし、柿本市守の叙位からはそれは検証できません。
 参考に、続日本紀に柿本朝臣佐留に関わるそのような記録が載っていないとの指摘には、例として、大伴宿禰旅人の任官・昇叙の記録の全てが載っているわけでもないことを指摘しておきます。大伴宿禰旅人のような大物でも、いつ、正三位に昇叙し、大納言に任命されたのかは続日本紀に記録はありません。古事記を奉呈した太朝臣安麻呂もまた然りです。墓が発見されて初めて『古事記』の正統性と太朝臣安麻呂の存在が再認識されています。また、『万葉集』の集歌二二四の歌の標題「柿本朝臣人麿死時」の「死」の用字から、六位以下の官人と解説するものもありますが、『万葉集』では身分や官位とは関係なく集歌四一六の歌の標題「大津皇子被死之時」、集歌四四一の歌の標題「左大臣長屋王賜死」のように表記されることがあります。大津皇子や長屋王については犯罪者に対するものとの指摘があると思いますが、そのような御方は『続日本紀』などの正史の精査を願います。続日本紀では廃皇太子他戸王を庶人と規定していますが、その死亡を「卒」とします。およそ、公式の位記や姓氏録での記録ではない場合、「死」の表現から当該人物が直ちに六位以下または庶人であるとの推定は律令規定の「薨奏令」に寄り掛かり過ぎ、その実証がなされていないと考えます。
 さて、『古今和歌集』の仮名序で「おほきみつのくらゐ」と記した紀貫之(八六六~九四五)の親戚に真済僧正(八〇〇~八六〇)がいます。その真済僧正と柿本人麻呂との関係を調べますと、真済僧正の父親紀御園(または祖父紀田長)の代に柿本朝臣一族から女を入れ、姻戚関係が出来ています。そのため、真済僧正は柿本僧正、または柿本紀僧正とも称されています。その真済僧正は何らかの関係で柿本人麻呂を尊敬し、自身で人麻呂像を彫り、それを葛城市新庄町の柿本神社の境内に堂を建て祀りました。それが現在に伝わる影現寺の縁起です。従いまして、柿本朝臣一族が祀る柿本神社の境内に人麻呂のための堂を建てたほどの真済僧正は、柿本朝臣一族では出世頭である柿本佐留や柿本市守達の先祖の話は十分に聞き知っていたと考えます。
 生没年などを考えると、柿本人麻呂から柿本市守、その市守から真済僧正、そのまた真済から紀貫之は、ぎりぎり、親または祖父達からそれぞれ先人の人生談を聞けた可能性がありますし、一族の誉れである先達の伝承が消え失せるほど離れた関係ではありません。ここから柿本人麻呂の伝承が紀貫之に伝わっても不思議ではありません。柿本市守に関係しますが、奈良時代に市守から二十年の後に紀一族の紀田長が主計頭を務めています。この紀田長の父親は大納言正三位に昇った紀船守です。そして、紀貫之はその紀船守の直系の子孫です。従いまして、紀貫之にとっても朝廷での主要官僚である主計頭を務めた柿本市守の蔭位の由来は重要な関心事の一つでもあったと考えます。
 結論として、柿本市守の蔭位の由来を推測すると、柿本朝臣佐留に死後贈位として従三位が贈られた可能性は非常に高いと思います。これが「おほきみつのくらゐ」の伝承と思います。そして、仮定した通りに柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂と考えます。
 なお、戦死以外の死後贈位の蔭の恩恵は一階級下るのが規定としますと、柿本市守の蔭位は嫡孫で正七位上、庶孫では正七位下となります。彼が従五位下になるのは順調に昇叙して嫡孫の場合で四十二歳、庶孫では四十六歳です。これでも五十歳代での主計頭への就任となります。ただし、この仮定では柿本佐留の死亡時期から市守の初任時期は和銅二年以降でなくてはならないとの制限がありますから、可能性としては柿本市守が佐留の嫡孫で四十二歳に従五位下へと昇叙したと推定します。
 注意事項として、ここでの推定は政治的な動きでの抜擢人事がないことを前提としています。仮に柿本市守が藤原仲麻呂派(または光明皇后派)に属し、天平二十年以前に抜擢人事での昇叙を受けていた場合は、すべての前提条件は崩れます。
 正史の記事からしますと、柿本朝臣一族の歴史では柿本朝臣市守の従五位上が最後の高位です。この場合、任官において子だけが蔭の恩恵を受けますが、嫡子で従八位上、庶子では従八位下から官人生活がスタートします。この場合、どれほど優秀でもおよそ六十歳で従五位下に辿りつくだけです。その次の世代は、親が従五位下以上の官位を頂く以前に出仕するであろうと云う関係上、大学寮を優秀な成績で卒業する以外、二十五歳に小初下からの出発となります。こうなると特別な功績が無い限り、尋常な年齢では、もう、従五位下の大夫の位に就くことは不可能です。なお、柿本朝臣一族では、この蔭位制度のためでしょうか、平安期以降では嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)に柿本朝臣弟兄が従五位下での肥前国守への叙任、文徳天皇の仁壽元年(八五一)に柿本朝臣枝成が従五位下への叙官の二つの記事を見るだけとなります。
奈良時代後期から平安時代になるとこの蔭位制度の制約から、次第に三位以上の人物を常に輩出する有力氏族だけが「卿」や「大夫」の地位にありつけるように集約されていきます。藤原氏主流は祖父・親の事跡から子は産まれながらに五位以上の殿上人たる身分を約束されています。これが血や氏姓での生まれながらの身分での「高」の感覚と思います。一方、古今和歌集を編纂した紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑たちは、良くて二十一歳嫡子で従八位上、庶子では従八位下からの出発です。悪ければ二十五歳の時に小初下からの出発です。先に見たように官人生活では一生かかっても、やっと従五位下です。これが、壬生忠岑が『古今和歌集』 歌番一〇〇三の一節「人麿こそは  うれしけれ  身はしもながら  言の葉を  あまつ空まで聞こえあげ」で示す、血や氏姓での生まれながらの身分での「下」の感覚と思います。
 紀友則や紀貫之たちが上を見て嘆いた平安時代の前中期、臣下では藤原、伴、紀が有力氏族とみなされていました。その紀氏一族である紀友則や紀貫之から見れば、柿本はさらに「下」の氏族です。そうした、血=身分と云う時代にその身分の中だけで生活をし、生きていかなければならなかった人々の感情は、職業選択の自由がある今を生きる私たちにはなかなか分からない世界と思います。
 ここに、柿本人麻呂の官位や身分問題を扱う時、『古今和歌集』などで平安時代人が述べる「身はしもながら」と云う言葉が、直接に現代人が想像する「官位が下」と云う意味にはならないことを思い浮かべて議論する必要があると提案します。
 一つ、参考に万葉集に次のような歌があります。この歌群が柿本人麻呂とその妻との相聞としますと、人麻呂は「中上り」をする身分です。おおむね、この中上りとは国守の任期途中に上京して業務報告をすることを意味します。つまり、歌からは人麻呂は国守であったと推定されます。官位や身分を議論する時、万葉集にこのような歌があることも忘れることはできません。
 
与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌一七八二
原文 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
 
妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌一七八三
原文 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京しても私のところへは来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?