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職業人としての柿本人麻呂

職業人としての柿本人麻呂
柿本人麻呂と三神社縁起

 柿本臣一族について、その祀る神について考察しました。そして、その祀る神から類推して、『万葉集』の歌から柿本人麻呂は、青春時代、鉱山技師であった可能性を見出しました。一方、その柿本人麻呂自身も祭神となり、現在、多くの人に祀られています。ここでは祀られる神となった背景を探ることから柿本人麻呂の姿を考察してみたいと思います。
 ほぼ、神として祀られる柿本人麻呂を確実に平安期以前まで遡れる縁起は、石見国美濃郡益田の戸田柿本神社縁起、長門国大津郡新別名(長門市油谷)八幡人丸神社縁起、武蔵国の川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社縁起だけのようです。その他の人麻呂神社は人麻呂を歌聖として尊敬しての勧進や創建が主で、明石人麻呂神社に代表されるような神主自身の歌聖人麻呂への思い入れが縁起のような神社です。なお、益田市の高津柿本神社は柿本益田氏の氏神社と扱わせて頂き、柿本人麻呂が美濃郡小野郷戸田に残した子孫の繁栄の証しとしますが、人麻呂自身とは直接には関係しないとします。
 筆者が行った万葉集の歌の分析から想像して、柿本人麻呂は人生で二度、大和から石見国美濃郡(現益田市)及び長門国大津郡(現長門市)付近に赴任しています。一度目が天武年間の初めで、二度目が慶雲年間頃です。このため、島根県益田市の戸田柿本神社縁起と山口県長門市の新別名八幡人丸神社縁起では、微妙にその伝承が違います。戸田柿本神社縁起は最初の天武年間に石見国美濃郡に赴任したときのもので、新別名八幡人丸神社縁起は二度目の慶雲年間の長門国大津郡に赴任したときのものと推定されます。
 では、その三神社の縁起では、どのようになっているかを見てみます。
 伝承と血縁において、一番、柿本人麻呂に近い戸田綾部氏が祀る私的な神社である戸田柿本神社の縁起では「綾部家は大和で柿本氏に語家(かたらや)として仕えていたが、後年、柿本氏の氏族と共に石見国美濃郡小野郷戸田に移り、その柿本氏と語家綾部家の娘の間に誕生したのが人麻呂である」となっています。また、別の縁起で「戸田郡の語家(かたらや)の柿の木のもとに一人の男子が・・」とあります。さらに、『人丸秘密抄』に「人丸は天武天皇御時三年八月三日に石見国戸田郡山里といふ所に語家命(みこと)といふ民(たみ)の家の柿本に出現する人なり」とあります。ただ、この『人丸秘密抄』は、綾部家の柿本神社縁起と『新撰姓氏録』に載る柿本姓の由来とを合わせた姿がありますので、「天武三年八月三日に石見国美濃郡小野郷戸田に柿本人麻呂と語家綾部の一族が大和から遣って来て、人麻呂と語家綾部の娘の間に一人の男子が生まれた」と云う出来事と「和珥族の支族で敏達天皇の時代に庭に柿の木が生えていたことから和珥臣から柿本臣に改姓した」との伝承とを併せて鎌倉時代以降に和歌道の門人への秘伝として創作されたと考えるのが良いと思います。
 さて、この綾部氏は一般にはその名に示すように紡織にかかわる技術系の渡来氏族とされていますが、伝承では語家綾部家とありますので、この戸田綾部氏は人麻呂の語学(=漢字・漢文)の先生のような立場、または、大和人である人麻呂と渡来系技術者とを仲立ちする百済系言語の通訳のような立場であったと推定されます。この戸田綾部氏の戸田柿本神社の縁起を補強するものとして、埼玉県川越に川越綾部家が祀る氷川神社摂社の人麻呂神社があります。この人麻呂神社は川越綾部氏の祖を祀るものとして柿本臣人麻呂を祖神としています。『柿本人麻呂と川越他(山田勝利、氷川神社社務所)』によりますと、川越綾部家はその家系図と縁起からすると石見国美濃郡の戸田綾部家から奈良時代後期から平安時代初期頃に分家し、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)綾部(あやべ)庄(しょう)の下司(げし)(=開拓地主、または、委託管理者)になっています。歴史ではちょうどこの頃、天平勝宝元年(七四九)から六年頃に柿本朝臣市守が丹後国守に任官しています。つまり年代的には丹後国守柿本朝臣市守と川越綾部家の先祖は丹波国何鹿郡で出会っていた可能性があります。場合により川越綾部家の先祖が本家の当主である柿本市守を頼って丹波国へ移ったのかもしれません。その後、この川越綾部氏は近江国を経て北条早雲の活躍した時代の永正二年(1505)に関東の川越へと移り住み、川越氷川神社に祖神として柿本臣人麻呂を祀っています。伝承ではこの川越綾部氏もまたその家系図では柿本臣人麻呂の子孫となっています。なお、丹波国何鹿郡綾部郷の綾部(あやべ)は「和名抄」では漢部(あやべ)と表記しますが、肥前国綾部庄の例からすると平安中期から後期までには既に漢部は綾部の表記に変化していたと推定されます。
 川越氷川神社摂社の人麻呂神社は、少なくとも五百年は遡れる正しい歴史があります。また、川越綾部氏が何鹿郡綾部庄での先祖の職業を下司としている点からも、十分、伝承として信頼を置けると思います。下司(げし)の言葉が官職の地位を示すものとして使われたのは平安初期から中期の時代ですので、川越綾部氏の歴史と身分を誇るために下司(「げし」から「げす」への変化)の言葉の価値が下がる後年に付記した伝承とは思えません。このことからも氷川神社摂社の人麻呂神社の縁起と伝承は相当に正確ではないかと考えます。
 さらに面白いことには川越綾部氏が伝える伝承での柿本人麻呂の命日は三月十八日です。これは島根県益田市の戸田綾部氏が伝える柿本神社の縁起に示す命日と同じです。大田道灌が死んだ後の室町時代後期の関東の川越で、歌聖の柿本人麻呂の子孫と名乗っても、当時としては藤原氏一門の冷泉家の歌人に対抗するには、あまりメリットはなかったのではないでしょうか。このためか、川越の人麻呂神社には室町から江戸期に和歌の免許皆伝の象徴となっていた摂津住吉大社から伝授された頓阿法師の人麻呂木像が、歌聖ゆかりの証しとして安置されています。本来、周囲の人たちが川越の人麻呂神社の由来を真剣に信じていれば、摂津住吉大社からの人麻呂木像伝授は不要か、逆に川越の人麻呂神社からなんらかのお墨付きが摂津住吉大社へ下される立場です。それに川越綾部氏は綾部の姓であって歌聖の柿本姓ではありません。京都や関東の人は石州益田の戸田綾部氏の戸田柿本神社の縁起や川越綾部氏の分家の話は知らないでしょう。つまり、人が戸田綾部氏と歌聖の柿本姓との関係を知らなければ家系図創作のメリットはありませんから、川越綾部氏の伝承は奈良時代後期の戸田綾部氏まで遡れると思われます。また、川越綾部氏が戸田綾部氏との間で室町時代になんらかの都合で緊密な連絡が結ばれた事実が無いのならば、両者の伝える奈良時代に遡る伝承は信頼できると思います。このことは逆説的に本家、戸田綾部氏の伝承の補強でもあります。
 一方、長門国の大津郡新別名(現長門市油谷)には八幡人丸神社縁起が伝わっています。この八幡人丸神社縁起は、江戸時代後期に長州藩が取り纏めた寺社資料である『防長寺社由来』によると天平宝字年中(七五七~七六五)に立てられた弓弦葉八幡宮の社外末社である人丸社に伝わる伝承を弓弦葉八幡宮が伝えるものと、人丸社神護寺である真言宗松雲山柿本院人丸寺が荒廃・廃寺となった後の天正年中(一五七三~一五九二)に再建された浄土宗松雲山大願寺が享保八年(一七二三)に長州藩に寺社由来を提出するために伝承から起こした人丸縁起とがあります。弓弦葉八幡宮が伝えるものは元和年中(一六一五~一六二三)に焼失しており、現在の縁起は伝承からの復元です。このような背景があるためか、その八幡人丸神社縁起の内容には、地元だけの伝承、戸田柿本神社の伝承、元寇弘安の役での蒙古長門襲来の時の地元の記憶や江戸期での人麻呂伝承等が取り込まれています。なお、弓弦葉八幡宮の人丸社は江戸期に長州藩の庇護下に入り、藩が人丸社の再建の援助を行っています。それが明治期の神社合祀政策によりに弓弦葉八幡宮と合わさり、現在の八幡人丸神社です。ここで、近隣の美祢郡赤郷の長生山八幡宮には「往古に不思議の瑞顕があり奈良の内裏に奏上し、豊前国宇佐八幡太神を勧請した」との伝承が残されていました。また、地元に残る長登の地名の由来が奈良登りの言葉の訛りとの伝承を踏まえ、これらが契機となって平成元年からの長登銅山遺跡の発見へとつながっています。これらの状況を踏まえると長門市油谷の地元だけに伝わる八幡人丸神社縁起の伝承については参考に出来ると考えます。
 その地元だけに伝わる伝承として八幡人丸神社の縁起では、「齢既に五十に余り給えば中津国の故郷忘れ難しとして和銅三年多田羅のはまを出、西海の波涛に漂ひ長門国大津の郡奥入江に着賜ふ、此地の至景他にことなりとて三年の春秋を送り給ひぬ」とあります。また、長州大津郡奥入江新別名にあった人丸社神護寺の後となる大願寺(現、油谷長安寺)の本地垂迹 松雲山柿本人麿縁起では、「太夫、姓は柿本、名は人麿。蓋、上世の歌人なり、持統・文武天皇の聖朝に仕へ、新田高市の皇子に遇ふといへり、仰人丸は権化の人にして、高く神明の思ひを振へり、(中略)、和銅三年多々羅のはまを出、西海の波涛に漂ひ長門国大津の郡入江に着賜ふ、此所の至景也にことなりとて三年の春秋を送り給ひぬ、・・・」とあります。
 この八幡人丸神社の縁起について考えますと、縁起は人麻呂が老齢になり大和の国の故郷が恋しくて帰る途中に難破して隣の国に流れ着いたにもかかわらず、景色が良いからとそこに居ついてしまったと述べます。これは、少し、おかしいと思います。普通は老齢での帰国途中での難破で救助された後は故郷の大和に帰るか、遭難の前に住んでいた大宰府に戻るか、どちらかだと思います。さらに当時の「祓い」の風習で、官人以外で他所者が先住者のいる土地に住むことは難しいと思います。すると、人麻呂は、故郷に帰ろうとするのを住民が懇願して留めて崇めるような人物であったか、難破以外の何らかの理由で三年ほど、この地に住んでいたと考えられます。官吏は職務規則から勝手に自分の意思で任地と任期を変更することは出来ませんし、人麻呂は寿歌や挽歌を奉呈するような官人です。民間人ではありません。また、当時の官人登用の原則で朝廷に処罰として罷免されない限り、よほどの老齢か、疾病に苦しんでいない限り官人を退くことは出来ません。つまり、官人である人麻呂は、難破・漂着した先の住民が望んでも、人麻呂の意思でその任地と任期を変えることは出来ません。従って、縁起の内容は太宰の多田羅(現在の福岡市東区多々良浜)から長門方面への航海での難破では無くて、長門国大津から太宰の多田羅への航海での難破と解釈した方が良いと考えます。
 つまり、縁起の元となった伝承は「高齢の人麻呂が三年ほど住んだ長門国大津から太宰の多田羅経由で大和へ向けて出発したが、すぐに難破した」だったのではないかと考えます。後年に「人麻呂が大和の都がある東に行くのに西の太宰府がある多田羅の地名が出てくるのは変だ。多田羅から船出したのだろう」と勘案して縁起が伝わる途中で変わったと推測します。平安中期以降とは違い、飛鳥・奈良時代の朝鮮半島との緊張関係の下に本州西端部の国防を担当する長門国府の本拠として長門国大津郡(現長門市)に国庁が置かれていたとしたら、その上京ルートは長門大津‐大宰府娜大津の多田羅(多田羅・草野津は陸路)‐豊前国京都郡の草野津(かやのつ)‐瀬戸内海‐難波大津の船旅になります。これは縁起とは、ちょうど逆の上京ルートとなります。なお、『万葉集』に載る長門国守巨曽倍對馬が詠う角島とは、大津郡新別名がある油谷湾の入り口にあり、比治奇(響)灘に面して浮かぶ島です。
 この和銅三年(七一〇)について、万葉集 巻一と巻二とにおいて人麻呂の歌が平城京(寧樂宮)時代に詠われた歌の直前に置かれており、古くから人麻呂は和銅三年三月の奈良遷都以前に死んだとの伝承があります。このあたりから和銅三年の縁起が創られた可能性が考えられます。逆に、これを根拠に和銅二年に死没したと云う説があります。ただ、根拠はありませんが恣意的に「和銅元年頃に、三年間住んでいた人麻呂が死んだ」との伝承が「遷都のあった和銅三年に三年間住んでいた人麻呂が死んだ」へ変化したと強い願望を持って無理に理解したいと考えます。なお、戸田柿本神社縁起と高津柿本神社縁起では、神亀元年甲子(七二四)三月十八日に高角鴨嶋で「卒」した柿本人麻呂に対して鎮魂の社とその神護寺を建てたとありますから、命日の三月十八日は、まず、動かないと思います。
 ただ、ここで理解していただきたいのは、戸田柿本神社縁起、川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社縁起と新別名八幡人丸神社縁起とは、歌聖としての柿本人麻呂を神として祀ってはいません。戸田綾部氏と川越綾部氏とは一族の祖としての柿本人麻呂ですし、長門国新別名八幡人丸神社は、昔、地元に住んでいた中央政府の偉い人を祀っているのです。そこが、多くの人麻呂・人丸神社との違いです。
 それぞれの縁起は、人麻呂がその地で何をしていたかは語っていません。中央の役人としてその地に遣って来て、そこに住んでいたことを語るだけです。ただし、石見国美濃郡戸田と長門国大津郡新別名とは、飛鳥・奈良時代の銅鉱山に関係する地域ですし、特に長門国大津郡新別名は重要な銅鉱山開発の拠点です。そこに金属製錬や鋳造を生業とする柿本臣の一員である柿本人麻呂は来ています。それも天武年間初め頃と慶雲年間頃との二度に渡って、何かしらの公務でこの地に派遣されたと縁起は伝えています。
 

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