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ギター9

新潟には再び戻ったが、住んだ所は新潟市から30キロほど離れた県央地域という所だった。
そこでアパートを借り、仕事場の物流センターまで通勤した。

仕事はきつく、早朝から20時くらいまでが平均で、忙しい時は23時くらいまで働く事もざらだった。
本社だけあって、地元のセンターとは扱っている商品の種類も数も桁違いに多かった。
毎日恐ろしい数の商品が40フィートコンテナで入荷し、それをパレットに積み直し、所定の場所に入庫し、同時に日々店から発注される大量の商品をピッキングしてトラックに積み込み配送する。

簡単に言うとそういう仕事だが、なにせ尋常ではない量なので、毎日フラフラだった。

それでも、家族の為、あるいは自分のためだと言い聞かせながら、そこで2年半くらい頑張った。

しかし、ついに体力の限界を感じ、またも退職した。

新潟で頑張れと言われた父に顔向できない気持ちだった。

それでも妻は「あなたの体が第一だから」と、辞める事に関しては責めなかった。

私はつくづくダメな人間だと今でも思っている。
最初は「ここで必死に頑張ろう」と意気込んで入社するのだが、しばらくすると、「もう無理だ、これ以上我慢出来ない!」と投げ出してしまう。

あまり自己分析は得意ではないが、常に新しい事をやっていないと、同じ事の繰り返しに耐えられない性分なのだろうか。

とにかく、仕事をやめ、こんどは何をしようかしばらく考えた末、再び製造業に戻ろうと考えたが、しばらくブランクがあり、不安もあったため、職安で知った職業訓練校で半年間勉強し直すことになった。

今考えると、いくら失業手当をもらいながらとはいえ、家族がいながらそんな事をするのはまともな人間のする事ではないのだか、当時の私はそれが一番正しい事だと信じており、半年間学校に通って簡単な資格も取った。

そして私は再び、製造業の会社に再就職した。


続く。

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